ほぼ毎日なにか書く0428

やっぱりテキストを書く者と、それを読む俳優と、それを聞く人と、その三位一体がおもしろいな、と10年遅れて気づきつつある。演劇大学にいたときにそのことに最も触れていたはずなのに、あの頃は骨よりも肉やアクセサリーに夢中だった。肉やアクセサリーの延長線上にいまの地域計画があるのでそれはまた別の骨まで到達したんだろうけれど。

俳優の仕事、ないし上演という行為は時間のコントロールだなぁ、なんてことも今更思っている。料理でいう水分のコントロールみたいな。テキストという譜面にもおよその時間やものごとの順序が埋め込まれているけど、実際の時間を操るのは上演で、俳優ですね。

フィクションを書くことに10年近くコンプレックスがある。それってなんなんだろうと歩きながら考えたら、自分が手元に持っているアイディアと書いたものとの差が受け入れられないというか、差の埋め方をよくわかっていなかったのかな、と思った。これは10年かけてやっと考えている。コンプレックスを感じるようになってからは書かない演劇創作の方法をずっと考えていたから、というのもある。
抱いているイメージと、手法のあいだにも開きがあって、イメージを伝えるテキストにならない、あるいは手法の飛躍、みたいなところもあったなと思う。地と天に固執する結果どちらも手放せず、天地のあいだの空間にうまくいられない、ということだったのかもしれない。

地に足をつけたほうがいい、ということがひとつと、迷った時はシンプルな判断を選ぶということ、あとは書かれたものは私そのものじゃないという分離の受容。最近始めた連句がそのあたりのことをほぐしてくれている感がある。言葉は言葉になった瞬間、ことばとして自立を始める。我が子とはいえ他人、みたいなところがある。

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春雷の縁日はよりどりみどり あの子は700系を待っている

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