ほぼ毎日なにか書く0417

「いま、東京でつくる」ということに関して浮かぶいくつかのこと。

東京がまた、かたちを変え始めている。物理的空間としての東京は人々の夢や期待や祈りや呪いをのせて、物体では捉えきれない動的な存在だった。東京はこの場所のこと=名詞でもあり、動詞のことでもあったように思う。いや、形容詞でもあったかもしれない。でもそれは、人が空間をつかうという大前提にたっていた。コンクリートと青空のあいだに東京はあった。

いま、名詞としての東京と動詞・形容詞としての東京が分離を始めたような気がする。かならずしもコンクリートの上でなくても青空のもとでなくても東京は可能になりつつある。来るはずだった祝祭は来ず、血液たる都民たちは都市空間に出てこない。シャム双生児のようだった東京は、ゆっくりと剥離しはじめた。また戻れるのかもしれない。だけど、この分離手術は境目の位置を刻んだ。寄り添い続けたとしても、そこに点線が引かれていることをわたしたちももう知っている。点線で切ってしまえば身軽になれる。失うものも大してなかろう。
ただ、いまが最後だと思う。住まいから歩いていけるような空間に目を向けるチャンスは。

まちに出ても際立つのは不在ばかり。そこにいないからいないこともあるし、いるのにいないこともある。人、人、人のコンコースにも誰もいない。影だけがあって人はいない。
いまの東京はほとんど見えない。ただ、人の不在でコンクリートはようやく自由になれたようにも感じる。

加速でも減速でもない迷宮のような時間はきっとずっと続くのだと思う。加速にせよ減速にせよみんなで一緒に乗ってた歩く歩道はなくなってしまい、それぞれが違う速度の乗り物に乗っている。速度を出すも出さないも、行くも戻るも自由。ただ、だからもう同じ風景をみることが難しい。

「いま、東京でつくる」、それはここにいない遠いかなたの人に届くような風景を描くことかもしれない。見えないものへの祈り。見えなくなってしまったもの、みることのできないもの、永遠に視線のあわないわたしとあなたの原風景。うん、そこまできてしまった。けどここからいくしかないよ、きっと。風景。

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