ほぼ毎日なにか書く0409

最悪の中を生きている。

4月7日の国の緊急事態宣言。この2週間で押さえ込みますといった翌日に、「事業者への自粛要請の2週間程度の保留」。じゃあ緊急事態宣言ってなんだったのか。速やかに店をクローズにした人たち、公演を取りやめにした人たちはなんだったのか。全く筋が通っていない、と思うのは生活者の視点から見た「筋」(例えば死者は少ない方がいいとか)が国にもあると思っているからで、彼らの視点に立つと「国民の生活や命よりも大事なことがある」という筋が通っている。その意思表示がされた。これまでになく、はっきりと。それで見ていくと2月末の休校要請も、損失保障をしないことも、マスクを配ることも、「責任を取ればいいというものではない」と言ったことも辻褄がある。わたしたちを包み込んでいた「最悪」が、首根っこをつかんで人質に取り始めた。いま、わたしたちは一山いくらで売られている。

話が飛躍するけれど、従軍慰安婦が奴隷だったのかどうかという議論のとき、奴隷の定義として全的支配という概念があると聞いた。足に鎖をつけられるような姿に限らず自分たちの自由な意思で行動ができるかできないかということらしく、だから従軍慰安婦に奴隷という言葉を当てることは正当であるという側と、週末には買い物などできていたのだから全く奴隷ではないという側とがいると。うろ覚えなので間違っていたら申し訳ないのだけど。

いまの私たちは「自粛」をしている。命令されていない。だから自粛に伴っていかなる損失・被害・事故・心身の破壊が起きても、それはご自身の意思でされたことですから政府には責任はありませんよ、と、30年くらいしたときに議論されるのかもしれない。ムードは責任を取らない。ムードのせいにしても返事一つ返ってこない。国は、コロナ対策の責任を取るつもりはないそうだ。本人がそう言った言わないではなく、今の制度設計では国が責任をとる必要はないのでは(あれば教えてほしい)。現金給付も損失補填もいっさいせず、500万人くらいが死んでも、大変な国難を乗り越えましたというストーリーにできるように感じる。

彼らには見えていないし、聞こえていない。どれだけ声を張っても届かない。幽霊だったのはわたしたちだ。地面だと思って踏みしめたいたものが沼で、もう腰まで浸かっていた。沼に沈んでるけど毎日元気に生きていこう、なんてできるのか? 守らないといけないものがあるならそうかもしれない。家族とか。一人身の大学院生は呆然としている。天地左右があべこべになり、それが一時的なものではなく、これからもずっとそうだということがわかっている中で何かをしないといけない。全身が沼に沈むまでにはまだ相当時間がかかる。

外出をしよう。
服を着替えて、マスクをして、鍵をかけて、歩く。電車にも乗るかもしれない。不条理をうちに抱えず、外に出す必要がある。行ってみよう、不条理の中心へ。

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