ほぼ毎日なにか書く0522
全然毎日書いていないのにはわけがある。
今週は、すべての隙間時間を使ってアンリ・ルフェーブルの「都市への権利」を読んでいた。200ページ程度の文庫本なのだけど、訳がそんなによろしくないのと、言葉の言い回しが独特で、かつ抽象的な言葉が延々と続くので読解に時間がかかる。一回読んで3割程度しかわからず、2回目でやっと7割程度わかったかな、という状態。明日は3回目を読んでなんとか8.5割くらいにしたいなというところ。
ルフェーブルは本書で、工業化によって引き起こされた都市の破壊的状況の問題提起をし、都市ないしは都市的なるもの(出会いや同時性といった都市の性格と理解している)を再建するために何が考えられるかを論じている。
この本をしつこく理解しようとしているのは、まず都市の問題を非常にラジカルな次元で理解しようとしているところ。目に見えるところの個別の問題への対処ではなく、都市なるものがかつてどうであり、どのように再建が考えられるのかを哲学の次元、理念的な次元で考察していること。個別の科学は現実を断片化してしまうと退け、都市計画も一種のイデオロギーであると批判し、哲学のみが全体性・総体性を扱えるとフォーカスを当てている。ただ哲学も、体系化の罠にはまって、動的なものでなくなっていると批判する。
あらゆるものを批判している。だけど批判は否定ではなく、哲学も科学も、その批判と現実の実践とが往復書簡的に続くことで現実が実現していくという、動的なものとして考えている。哲学も科学も動的だし、その展開も動的。おそらく、革命の一種としてこの都市論を描いているのだと思う。労働者階級のみがその力を持つ、ともある。
労働者階級という用語が適切かはわからないけど、要するに特別な一部の人ではなく市井の人々の行動にこそ力が宿るということをいっているのだと思う。
かつ、そこで遊戯と芸術が重要な役割を持つと明言している。遊戯の中に実践は結びついて展開するといい、かつ、芸術は都市の「我有化」とか「作品としての都市の獲得」の感覚を伝えられるという。市井の人々に力を与える契機に芸術があり、その展開には遊戯が肝であるという。
ここで遊戯でもあり芸術でもある演劇は、またとない位置付けを得られる。ルフェーブルは演劇のことをそこまで書いていないが、彼の示した見取り図の中には、公共空間を使った市民パフォーマンスのような実践が重要な位置に置けることは間違いない。
そうしたパフォーマンスの「ための」空間の話ではなく、パフォーマンスが、都市空間の再獲得というボトムからトップまでを貫くうごきの中で重要な役割を果たすということの示唆がされている。
このように、哲学・市民生活・計画論を演劇やアートで串刺しにできる言説は少なかった。少なくともあまり手中にできてなかった。
もう一冊、邦訳されているものだと大著の「空間の生産」があるが、こちらも読まないとだめだ。
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