日記 2024.5.2
この日も仕事は休み。家でやることをたくさんやると決めていたけど起きたのは9:30くらい。シャワーも浴びないといけない。でも浴びる前にひとつふたつ用事を済ませられるとなんとなくお得な感じがして、シャワーを浴びないまま読みかけの本を読んでいった。
『庭のかたちが生まれるとき』。残り1/3を2時間くらいかけて一気に読んでいく。地下の話や、石組みから素行的に「自然」なるものが想像されていくことなどうなりながら読んだ。面白い。「あってないような庭」という態度はあらゆる物事に当てはまる。見えないことによって見えてくる、想像上の大地。それを「オーソドックスな庭ですよ」といって、最後は積極的にお客さん向けに仕立て直していくのも思い切りがいい。出てくるお寺を調べてみたけど、この庭のことはネットでは取り立てて書かれていなかった。名のある庭ではなく、視界にふっと入ってくる、当たり前のような顔をしてそこにある庭ということなんだろうけども、出てこないことが気持ちいいというのは新鮮な体験だ。
あらためて作庭とランドスケープデザインは違う仕事なんだということを理解した。日本庭園の主役は石であり、ある場所からの眺めだ。なにかに使ったり、遊んだりという公園的な発想ではない。同じ植物をつかった屋外空間でも目的が違う。ランドスケープデザインでは石ひとつひとつの表情を見て即興的に布石していくなんてことはないと思う。そうそう、庭師のコミュニケーションや知恵、身体の技法について書かれていたのも面白かった。我が身のコミュニケーションや普段のからだの使い方を振り返るなどもした。
庭づくりは面白いと思うけれど、この道に行けるかというとちょっと違うなと感じた。興味はあるけれど。
読み終わって浮かんだのは「空間の詩学」への関心だった。「空間のドラマトゥルギー」といってもいいかもしれない。まだ、それがなんなのかはわからない。でも、物体の集積から生まれるなんらかのビジョンや、体験として想起される「もうひとつの空間」、そうしたものに強く惹かれる。空間なのか演劇なのかという着地点のない二項対立を超えられる何かが、「空間の詩学」ということばにはありそうだ。読みかけで止まっているガストン・バシュラールを読むべきか。
午後は常備菜をつまみながら、世田谷の仕事の文字起こしを終わらせていく。空間についての頭が、徐々にインタビューの倫理のほうに引き戻される。いや、まちの移り変わりについてのインタビューという意味ではこれもまた空間の詩学をめぐる仕事のようにも思える。話を聞く、記録する、そこから何かがわかった気になる、あるいはわからないと思う。そうしたことを立ち止まって考えたくなり、次の文字起こしにいかずにしばらく自分のための考察を行っていった。「わかった」なんてことはないよな、ということと、じゃあどうするの?ということについて。
近くの定食屋でチキン南蛮を食べてマクドナルドに入る。そこで、『聞くこと、話すこと。人が本当のことを口にするとき』を読み始める。先ほどまで考えていたこととバチっとはまる。うう、それ、そうそれなんですよねって呟きながら読む。ぼくのなかでは話を聞くことと、まちや空間について考えるということが、こうしてつながっている。それは話をするなかで伝わったり伝わらなかったりする、ということが、演劇論と空間論の結節点になっている。だから、インタビューの倫理がずっと気になっていたんだと勝手に腑に落ちる。
それで、どうする?
21:30くらいに歩いて帰宅し、茨城の仕事のインタビュー記録を聞いていく、1時間くらい。メモを取るだけなので文字起こしをするよりもずっと気が楽だ。でもこのほうがむしろ「聞けている」かんじもする。記録としては不十分だけど。でも文字起こしだってなにも十分ではない。
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