ほぼ毎日なにか書く0524

今日は思考整理のための思考を、整理せず、とにかく書いていく。
来週博論のフレームの話をするので、そのために・・・。

演劇のための空間という着眼点がある。一方で、演劇によって生成される空間というのがある。遊び場にしても、用意される遊び場というものと、遊ぶことによってそこが遊び場になるということがある。緑地にしても、行政によって用意される公園やグリーンインフラもあれば、住民が自発的にみんなで植木鉢を出して花の道を作ったりすることもある。
用意される空間だけをもってして、空間のすべてを語り尽くすことはできない。
ではこの二つの視点は違う次元なのか?というとそうでもないかもしれない。
A.遊び場の場合、公園、道、森それぞれ遊び空間としてリストアップもできる。演劇の場合も、劇場、広場、道、自然空間、のようにリストアップもできるだろう。客観的に、それがどういう空間なのか?で切っていくというのはこういうことだろう。
B.演劇行為によってその場に演劇空間が立ち上がる、という方は、いわば現象学的な演劇空間ということになるだろうか。劇場とか道とかいう話ではなく、行為によってある空間性をもった場が生まれることに注目して「空間」という場合は、知覚や五感といった主観的に経験できる意味で「空間」といっていることになる。
AとBはその視点の置き所が違う。寺山がいうように「劇がある場所が劇場なのだ」というのは後者の視点だ。ただ、全く抽象的な空間というのはないので、寺山にしても市街や道、住宅、ビル、車といった具体的な空間を用いている。
だが、Bの視点は用意された空間=演劇空間という視点へのアンチテーゼとして出てくる部分もあるため、まるでB=非劇場空間という印象もある。けれど、劇場だって劇が行われてはじめて立ち上がる経験的な演劇空間もあるだろう。

と、一方で、しかし劇的な空間とそうでない空間はあるようにも思う。劇場は、上演をしていないときでも劇的に感じられるのはなぜだろう。そこで上演されるものを想起するから?普通の市街ではどうか。意識的にまちを劇場として見ていくと劇的にも感じるが、通常は通行とか住むとか食べるとか、機能面でみているだろう。
空間に対して劇的と感じる感覚は一体なんだろう。ひとつ言えるのは、これはそこで演劇がやられているかどうか、演劇のための空間かどうかというより、個人の認識の話だろうということ。演出家だったら砂浜をみて「いい劇場だ」と思うかもしれない。現象学的にいえば、それはその人にそれまでの経験が蓄積しているため、本質直感として「劇場」というイメージが引き出されていることになるだろうか。認識論に注目して、演出家はどういう空間要素に対して「演劇的」と感じるか、という研究も面白いのかもしれない。

現象学をちょこっとかじって、よかったな。おぼろげながらも主観と客観、認識論という視点を持つことができるようになった。今まではこの二者をうまく切り分けることができていなかったように思う。
客観的に「そうだ」とされているものがなぜそう言われているのか、鵜呑みにしないためのツールとしても役に立つ。逆に、なぜ人々はそこに疑いを持たずに受け入れているんだろうということにも関心がいくようになる。

話を戻す。

いや、今日はおわりだ。

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