ほぼ毎日なにか書く0405
川口智子さん演出のコンテンポラリー・パンク・オペラ『4.48 PSYCHOSIS』。3月下旬に渋谷で上演されたものの新型コロナの状況により来場できない観客のために用意された応援チケットというシステムで、上演映像を見た。よかった。
「4.48 phycosis」は英国劇作家サラ・ケインの遺作で、精神病棟に入院する患者の内的世界を描いたものと言われている。
この上演では全編通して戯曲を歌われるテクストとして扱っていた。このことが、シンプルにすごいことだった。全編歌によって進められていく。
身体が歌を生み出し、歌が身体を規制する。内と外のあいだに身体が置かれて、常に緊張状態にあるように見えた。
テクストを歌うことで、なにもの「かのように」そこに存在すると思ったら、すぐに何者でもなくなる。具体性と匿名性が拮抗している。存在とは何か、存在そのものがゆらゆらとしたものだということを感じた。
ことばの持っている「景」を退け、徹底的に「詩歌」という約束を通してのみテキストを扱う、ことばから想起される景を留保しつづける、そんな印象を受けた。そうすることによって、テクストから見える地平が晴れ晴れするほど広がっていた。
「track(跡)としての俳優」ということを思った。なにかの跡を蓄積し駆動しつづける痕跡としての出演者たちの身体。ことばも行為も即座に立ち消えて痕跡になる。ライブとしての存在が極めて危うい。だけどそれでも身体だから、幽霊にはなれない。そうしてtrackが誰かのからだにまとわりつき、終幕まで運ばれていく。
ユニゾン、ハーモニー、独唱、掛け合い。歌うことはからだに不自然を強いることでもある。エリカ・フィッシャー・リヒテ「パフォーマンスの美学」に出てくるコロスの話を思い出した。一体になれないことが生み出す葛藤。なんてドラマチックなんだろう。
それを映像で見ている自分や社会の状況のことも考えざるを得ない。だけどなんだか孤独に対して晴れ晴れとした気持ちになった。stay at homeの詩学。どうなんでしょう。
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