ほぼ毎日なにか書く0414
4日も空いてしまった。毎日、家の論文や本の棚卸しのような作業と、文字起こしのアルバイトと、オンラインミーティングをしているとあっという間に夜になる。今もこうして。
オンラインミーティングがいよいよ市民権を得てきた。しかもビデオ付きで。会話だけでなく、自分の正面の顔と家の壁を映して相手に伝えるということが当たり前になってきた。少し前だとビデオも使って話すのは、気心知れた特定の人か、そうでなければちょっとした緊張感があった。特別なことをしているという感覚がまだあった。けど、今はその緊張感が怒涛のオンラインで決壊しつつある。
例えばカフェで打ち合わせをするとき、わたしとあなたはカフェという空間にいる。オンラインミーティングではどこにいるのだろう。自宅?そう、自宅、だけど同時にミーティング会場でもある。自宅の一部が切り取られてミーティング会場になる。自宅だけでない、生活の一部が公に向けて切り出されていると考えたらおおげさだろうか。
カメラを通してパブリックが自宅に侵入してくる。プライベートとパブリックの境目が問いに付され始めている。それを否定したいのではない、けれど、これはとっても新しい事態で、いま何が変わろうとしているのかをよく見定めないといけないなと思う。生活がパブリックに投げ出される状況とは一体なんなのか。半径5mの世界が、文字通り世界に投げ出されている状況とはなんなのか。
鷲田清一さんが、テレビや電話の普及した状態ですでに場所性の喪失について書いていた。うろ覚えだけど、日本にいるのに地球の裏側でいま何が起きているか見られる状況は、すでに場所や距離というものがちぐはぐになり始めているという指摘だった。一種の視覚の拡張なのかもしれない。それが、ビデオ通話の普及で格段に推し進められている感覚がある。いまや、自宅が世界だ。家の外に出なくとも。
プライベートに政治性が介入してくる状況とパラレルに、多分パブリックのあり方にもプライベートが侵入しているのだと思う。公が私的に、私が公的に。もちろん、生活と政治は表裏一体だった、常に。だけど今の状況は肥大と反転という感覚がある。さて、この状況で、人が自宅にいながらも集まれるようになった時代に、広場や公共空間はそのままでいられるんだろうか。それもまた、選択肢の一つになるんじゃないだろうか。「地域」が土台から選択肢になったように。
生活は具体的だ、と、今日打ち合わせで聞いた。いい言葉だと思った。例えばこの包丁、このなす、このまな板、までだったら生活ではない。だけど、それらが雑然と存在するこの全体が生活だ。だから、オンラインに絵をうつすときはこの「全体」がうっかり流れていかないような工夫がいるんだと思う。ちょうど昨日俳句の話をしたり、俳句の記事を調べているからかもしれないけれど、やはり行間を生み出すためには思い切り手放す必要があると思う。具体性はそれでも生まれる、人だから。思い切り手放すことで、揺れ動くパブリックとプライベートの境界線の綱引きを、遊べるんじゃないだろうか。
(1)「都市のたくらみ・都市の愉しみ」サントリー不易流行研究所 1996年の中の鷲田氏論考
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?