ほぼ毎日なにか書く0510

文化人類学の本をよんでいると、未知のコミュニティへの調査に繰り出してそこで生活しながら観察をしていると、自分がなにものなのかという問いにぶちあたるという話がよく出てくる。自分が彼らをみているこのまなざしはなんなのか、どんな枠組みを頭の中に備えているのか。ということに本を読むだけではきっと出会いにくく、その場にいて、見ると同時に見られることで、考えざるを得なくなるのかなと思う。

だけどそうした内省は、アウトプットにはのっていきにくい。あくまで学問としての人類学は近代の実証科学がベースだから、感性は削り落とされるのかなと思う。だからか、論文とは別で紀行文や日記が公開されたりもする。

対象化すると同時に自分の身をふりかえることを意識的に埋め込むことが、アートには必要だと思う。その場に立ち会った、目撃した自分の身のありよう、言語化できないもやもやとした部分、そんな謎の領域を、謎のままかたちにしていけるということが、文化人類学と比較したときの地域アートなんかの特徴なのかもしれない。
謎のままは言い過ぎか、その謎を足がかりにしてなにかを作れる。
居合わせた人や観客の謎の部分にも触れていくことが、良いとされている、と思う。

そのとき媒体によって、得意なことがちがう。たぶん、その表現にとって本質がどこにあるのかということと、題材がどう組めるかということなのかと思う。
演劇の本質は、観客の体験にあるだろう。本質の領域をすこし広げると、演じる人・見る人・演じられるなにか・空間という話になる。ただ、演じる人や空間、内容もやっぱり観客がそう見るということで成り立つので、観客が中心にいる。本だけ、録音の音声だけ、映像だけという演劇もありえるけれど、「その都度あたらしく発生する」という点が守られていれば、生身の俳優がいなくても演劇じゃないかと思う。

いま、俳優不在の音声作品を考えつつあるので、どうしてもこうしたことを考えていかざるを得ない。「集まる」ということを手放しても演劇が成り立つのか、を考えていく。

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