ほぼ毎日なにか書く0509

1週間経っていた。全然毎日じゃない。反省。心を入れ替えて毎日書こう。

この1週間はオンライン打ち合わせ、オンライン雑談、つぎの作品の実験、読書などが折り重なるようにつづいて、1日を1日として終わらせられなかった感がある。1日単位でなにかを言語化することが難しかった。

きょう、なにかを書けているのはしばらく読んでいた「現象学入門」というフッサールの現象学についての本を読み終わったからと思う。何度か手にとっては後回しにしていたので、ちゃんと読めてよかった。フッサールの原著も買ってあるので読まないといけないけれど、かなり厳しいな。

フッサールに触れ始めたのは、もともとハーバーマスを読みたいというのがあったのだけど、コミュニケーションの問題を考えていくためにはまず、現象学についての最低限の理解があるのではないかと思ったから。読み終わったらやっぱりそうで、ものをどう認識しているか、他者をどのように確信しているのかという、意識的に行われているより手前の「主観」の問題をめぐる哲学だった。用語が多くそれらの用語がどのように重なり合っているのかを理解するのは容易でないけど、コアの部分は理解したはず。

その上で疑問として残ったのは、他者の存在を確信する「類比」という行為がなんなのかまだよくつかめていないことと、その上で得られる「間主観性」というものについて。おそらく類比を理解すれば間主観性も少しつかめるのだけど。きっと間主観性ということが、コミュニケーションの問題と直接関わっている。間主観性がつくられる過程では、コミュニケーションはどう位置づくんだろう。言語は、身体は、メディアはどう位置づくんだろう。

もう一点が、「客観」の問題を退けたのが現象学だけれど、よく会話の中ででる「客観的に考えよう」とかアートでいう「ちがうものの見方」みたいなもの、これはエポケー(判断停止)と同義と見ていいのか、そうでないのか。人間はなにかものだけでなく、自分自身のことも対象として見ているという話が「自己対象化本性」と呼ばれていたが、このこととエポケーがどう重なっているのか、そしていわゆる「客観的に見る」という行為とはどうつながるのかが気になる。
ただ、「客観的に見る」がデカルトのように真実に近づいていく前進の行為ではなく、疑って疑わしいものを剥ぎ取ってそれ以上疑えないものがなにかを突き止める引き算の行為だということはわかった。俗にいう「客観的に〜」は、両方の要素を持っているなぁ。

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