ほぼ毎日なにか書く 0407

どこかに行ったり、誰かと会う用事がない日なので、自転車で長崎にやってきた。天気がいい。最近知り合いが改修のようすをアップしていたはらっぱ公園にきて、やきとりキングで買ったお弁当を食べる。太陽の光が思った以上に強く、黒いジーンズに熱がたまってきたので日陰のベンチに移動する。

読みかけだった、丸山欣也さんの「かたちの劇場」を読む。屋外で読むと書かれていることの意味が倍、三倍に膨らんで感じられるような気がした。構造物がつくる日陰や線、樹木とその影、地表の草、春の風のにおい。走り回る幼児や、ヘルパーさんと歩くおばあさん。文句を言いながら作業をする労働者。コンクリートやアスファルト、スマホのガラス面に触る時間が多くて忘れそうになるけど、フィジカルの世界の基本は自然のもので、それは人間がつくったものをはるかに凌駕するボリュームで存在していて。その温度や手触りを思い出すことはなかなか大事だ。人に働きかけるということや、ものを作るということの中心には、やっぱりアニマルとしての人間・自然としての環境が据えられないとおかしなことになる。自然派を気取るというようなことではなく、温かいものは温かい、冷たいものは冷たいというレベル。ものの声質や、わたしの身体との呼応関係ということかなと。

このあたりで、「資本論」の使用価値の記述を思い出したりもする。「価値」に振り回されるのではなく、「使用価値」を中心とした生活のほうが生きやすいのではないか。

日が強かった時間は日陰が人気だったけど、少し風が冷たくなってきて、ひとびとは日の当たるところに出始めた。こどもたちはただ体を動かしたり、動かさなかったりしている。物もルールも必須ではない、環境に身を浸すだけで十分忙しいというかんじ。これはここがひらけた空間だということもあるかもしれない、一方でいろいろなモノがあることも大事だ。ランドスケープデザインってそういうことなのかしら。樹木は視界を完全には遮らないが、やわらかく空間を階層化する。そして表裏がない。角度を変えるとまったく別の空間が感じられる。

さまざまな人が一人になれる空間でもある。これもまた視界の見通しがなせる技かもしれない。スケールもある。ここが何ヘクタールもある平原だったらまた違う居心地の悪さを感じるかもしれないが、ある程度ヒューマンスケールにできているのでそこまでストレスも感じない。

落ちている葉っぱを拾ってみる。カサカサと乾燥しているが、自分の手もまた水気がないことを知る。ベンチに置いた葉っぱは風で飛ばされていった。カサカサの葉っぱが、風を見える化した。

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