ほぼ毎日なにか書く0901

書くことが自分を救うときもある。今日は書くことで救われたい。

まちに接するときの態度についてまた考えてる。ずっと考えてるけどまた。ずっと考えてるからといって答えが見つかってるわけではない。積み残した宿題状態になっている。

一昨日は南部さんと、昨日は宮本さんと会った。会いに行けば会える。このおふたりとはどれだけの期間会わなくても関係が途切れることはないだろうと感じる。人類学でラポールというのかな。親愛関係みたいなものがあるなと思う。ではラポールをできるだけたくさん作りたいのかというと違うとも思う。作品をつくるということに巻き込まれるのは広範囲なまちなのに、広範囲なまちと関係しようとはしていない点でここにはギャップがある。丁寧な関係づくりをできない領域がどんとある。だからどう丁寧に進めるかだけでなくどう無責任になれるかも大事なことだなとここ数日考えている。忘れられたっていいじゃん、ベストなふるまいを続けなくったっていいじゃん、と割り切りたいところだがひ弱なメンタルではなかなかそうなれない。

机上話にすぎるかもしれないけど、土地と人はもれなく強烈に結びついているのかというと、そんなことないんじゃないかと思う時もある。90年ここに住んでるというのを普通長いと捉えるけど、何億年みたいな中での90年だとつい最近の話になる。お互い新参者ですね、みたいなノリもあってもいいと思うようになってきた。でも以前の自分がこう言われたら上手に受け入れられなかったと思う。東京と自分をつなぎ合わせて自分の足元を造成していたから。足元を崩されるように感じたと思う。同じように、地域の人にこのスタンスを突きつけても不幸になるだけだ。90年そこで生きている人は90年の厚みをもってそこにいる。ぺらぺらの自分はとても耐えられない。だけどそうやって地の人と他所の人って図式をすぐに立ち上げるのは、センスがないなと思うようにもなってきた。そんなこた誰だって知ってるんで、よそ者視点だなんてかっこつけて言われてって、ふーんってかんじ。じゃないかな。

まちは誰のもの?という企画があった。タイトルが秀逸だと思った。まちは誰のもの?誰もがまちの所有権を主張する可能性もあるんじゃないか。もちろん植民地的な話になってはいけないんだけど、だけど「神の存在の一部としての世界」みたいな考え方をすればわたしもあなたも大差ないし、消え失せた大量の可能性だってあることになる。詭弁だろう。いまわたしはこの道を歩いている、だからまちはわたしのものだ、とだっていえるかも。わたしって誰なのかということでもある。

まちには作者がいる。明確にいる。まちは集団創作でできている。すでにこの世にいない作者もいる。いまそこに住んでいる人たちは、作者たちの一部だ。だからそのまちを知るときに意味ある訪問先になるし、しかしそれ以外にアクセス不可能な作者もいる。名前がわかっているならまだしも、作者不明のものもたくさんある。作者不明であることによって異常な力を持ったものもある。饗庭先生は「都市をたたむ」の中で自然にできたまちなんてないということを警告していた。すべてのまちは何らかの計画があって作られていると。計画を、作者と読み替えることができると思う。

作品としてのまちと、作者としての人。もちろん作品が作者をつくってもいるので一方通行の関係ではありえないんだけど、さしあたり作品=物体のまちと、作者=人間がいる。この分離は、まちをみる時のひとつ尺度になる。
そんな物体と人間のあいだに、わたしはどう存在するかという問題が浮上する。遠くから眺めるのか、こそこそ通り過ぎるのか、ノックするのか、ずっと座っているのか、道路に寝転んでみるのか。全身100%そこに置くということはなかなかない。何日に一回くるのか、普段はどこにいてどのくらいの距離を移動してくるのか、あるいはもうそこに住んでいるのか。気持ちは住んでいるけどからだは別の場所にいるのか。わたしの中でこのまちはどういう意味なのか。HDDのどこに、どうタグ付されて格納されているのか。格納だけでなく、わたしの一部を切り落としてまちに置いていくこともある。なにを切り落としていくのか、どこに、誰に。おいしく食べてもらいたいのか、人知れず腐らせたいのか。

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