大西巨人『神聖喜劇』解説
※初出/光文社文庫版『神聖喜劇』第二巻(2002/8/1)
光文社文庫版『神聖喜劇』の事実上の一人目の解説者として(第一巻の解説は既出の書評が再録されている)、予めこれだけは伝えておかねばならぬと思う。何の予備知識もなく本書を手に取り、手始めにこの解説に目を通している読者に向けて一つだけ言えることがあるとすれば、それはあなたの選択は決定的に正しいという一言に尽きている。そんな惹句は聞き飽きたと突っ撥ねたい気持ちも判らぬでもないが、今回ばかりは少しの誇張もない真実が告げられているのでどうか素直に受け取ってほしい。この小説は、迷わず全巻買い揃えるべきだ。全部で五冊もあるからといって躊躇していてはいけない。日本文学史上の最高傑作の一つに今、あなたは遭遇してしまったのだから、ためらうべき理由などあるはずもないのだ。いや、日本文学史上の、などとケチなことは言わない。何なら世界文学的にも最高水準に値する一篇と断言したっていい。そう断ずるこのわたしの文学観を信用できぬという読者も少なくないかもしれない。しかしこれは、わたし自身の趣味判断に沿って述べられているのではなく、単なる事実として語られていることなのだ。第三巻以降の解説者たちが、そのことをより具体的に実証してくれるだろうと期待する。いずれにせよ、本作を読めば必ず強度の知的興奮と充実した読後感を得られるはずだし、やめてしまったら埋め難い大きな損失となるに違いない。掛け替えのない素晴らしい作品との出会いが、人生において一度か二度は訪れるものだ、とかいう話を聞いたことが誰にでもあるはずだ。今あなたが手にしているこの小説こそがまさにそれなのだ。すでに一巻目(さらにはこの二巻目まで)を読み終えた読者ならばこの賛辞を疑う者はいまい。『神聖喜劇』が齎す感動と衝撃は、他の表現ジャンルにおいては決して味わえぬ、文学作品特有のものだ。だからといって、あらゆる「上質」な文学作品が同種の感動と衝撃を保証しているわけではない。空前絶後と形容されるものだけが導き得る圧倒的読書体験――大西巨人の『神聖喜劇』は、確実にそれを与えてくれることをわたしはまず宣言したい。
このように宣するわたしにとって、『神聖喜劇』が別格に位置する小説であることはもはや明らかだろう。上に述べたことは単なる事実であると同時に、わたし個人の経験的実感に由来してもいる。『神聖喜劇』を読まずにいたら(あるいは蓮實重彦と柄谷行人の対談集『闘争のエチカ』によって同作の存在を知ることがなかったなら)、わたしは自分自身のデビュー作『アメリカの夜』を現在の形に書き得なかったこともまた確かだ。同じく引用と思弁を主体として(むろん質及び量的に比較にならぬが)構成された拙著の物語において、『神聖喜劇』は重要な役割を担って終盤に登場する。具体的には、本書第二巻「第三部 運命の章」の「第二 十一月の夜の媾曳」の一部分をわたしは『アメリカの夜』の中で引用した。脚本形式で綴られる哀切な情感に満ちた同節は、理性的な言葉の掛け合いという形で匿名的な男女の「情事」を描き出しており、むさ苦しい「軍隊小説」において特に印象深い官能的な箇所でもある。巨篇の語り手を務める主人公東堂太郎と「『安芸』の彼女」と呼ばれる不幸な女性とが交わす会話によって、作品全体を通して問われる(戦時下の)ニヒリスティックな人生論がそこで明確化される。「我流虚無主義者」と自覚し、「すでにして世界は真剣に生きるに値しない」と認識しながら、対馬要塞重砲兵連隊の補充兵役入隊兵となった東堂太郎にとっての最大の課題とは、「生きるべきか死ぬべきか」(戦場にいかに臨むか)の答えを出すことだ。東堂の基本姿勢は「『一匹の犬』としてこの戦争に死すべき」というものだが、「『安芸』の彼女」との「問答」の中で生まれた「かすかな予感のような物」や「気がかり(疑い)」が、三カ月間の過酷な新兵教育を受ける過程で「別様の何か」の可能性を常に模索させる契機(他者の声)となる(ちなみに東堂は「異様な何かの気配」にとても敏感な男だ)。この「別様の何か」の可能性を様々な記述の水準(引用と思弁)において徹底して顕在化させてゆく試みこそが、『神聖喜劇』の中心的な形式上の実践だと言える。厖大な引用と脱線をくり返す思弁は、物語(一つの声)に重複して響く複数の(他者の)声として示されているわけだ。東堂太郎は、超人的な記憶力を備えた博覧強記の人物(強固な主体)として設定されてはいるが、彼の思い付き(思弁)は直ちにいくつもの他者の言葉(引用)を呼び寄せてしまい、絶えず引き延ばされて多重化(増殖化)に及ぶ。従って必然的に、『神聖喜劇』という作品は長大化せざるを得ない。しかしその長大化にこそ意義があるのだと受け止めねばならない。
以下は続巻の内容に触れるため、いわゆる「ネタバレ」的な論述となってしまうので全巻読了後に読まれることをお勧めする。
声(または存在)の多重化(増殖化)は、東堂の脳裏においてのみ起こるわけではない。「別様の何か」の可能性は、『神聖喜劇』の物語世界上にて幾度か具現化する。再び本書第二巻の「第二 十一月の夜の媾曳」に注目。東堂太郎と「『安芸』の彼女」が、川端康成の『高原』における一場面(召集されて戦地へと赴く海軍士官を、妻が感情を押し殺しながら見送る駅の場面)を巡って話し合う件がある。「『安芸』の彼女」は、同場面に感動しつつも、出征する夫をあのように黙って見送るのが適切なのかと疑問を隠せない。それに対して東堂は、「人が人を見送る以上は、あんなふうな見送り方のほうが、私はいいです。(略)ついでに付け加えれば、見送る側が女であっても男であっても。」と返す。この「見送り」の状況は、よく似た情景となって第五巻「第八部 永劫の章」の「第四 面天奈狂想曲」において(再)現前化する。ただし「見送る側」も「見送られる側」もここでは「男」であって、関係性の意味は原典(『高原』)と一致しない(「別様の何か」の可能性として示される)。「見送る側」が東堂、「見送られる側」は内務班長大前田文七軍曹が演じている。職務放棄して愛人「元ミス竹敷」と「媾曳」していたことがばれて逮捕された大前田は、小雨の降る中を憲兵に連行されてゆく。そのとき東堂は、『高原』で描かれた軍人の妻のごとく黙したまま視線のみを向けて、戦場ではなく軍法会議の場へと連れてゆかれる大前田を「見送る」のだ。
東堂(と「『安芸』の彼女」)の過去の「媾曳」を、大前田(と「元ミス竹敷」)が反復することにより、両者の対応関係(と立場の入れ替わり)が改めて明らかとなる。東堂太郎の合法闘争は、大前田文七という不合理な他者との直面によってこそ成立し、大前田もまた東堂の「知識人」的言辞を弄した反抗にたびたび逆に「教育」される(その結果、「三カ月教育の最終日」に大前田は相手の論法を逆手に取り、本人自身気づけずにいた東堂の内務規定違反を厳しく追及するに到る)。つまり『神聖喜劇』は、二通りの(「別様」の)「教育過程」(の可能性)を物語っていたのだと解釈できる。だが、それによって物語/制度/人生/等々が完了(死)を遂げたわけではない。教育期間を終えて実地に移る東堂太郎の本格的な兵役生活(実戦/実践過程)は、「別の長い物語り」(「別様の何か」の可能性)へと持ち越される。つまり物語(一つの声)の終幕は、「新しい物語り」(別の声)の始まりの予告によって無効化されているのだ。こうして、『神聖喜劇』は形式上においても「死」を退ける。むしろその物語は、ひたすら「胚胎」(教育)を巡って展開していたことが最終的に告げられてもいる。末尾にて語られるのは充分すぎるほどの説得力を持つ結論(「実践的な回生」)だが、「教育過程」(引用と思弁)の質と量がそれを支えているのは言うまでもない。
当初は「犬死に」を望んでいた東堂太郎は、「この戦争を生き抜くべき」だと次第に考えを変えてゆく。「戦争を生き抜く」上でいかに戦場に臨むべきかの決定的なヒント(非戦思想貫徹の「ほとんど正しい解答」)を、東堂はやはり他者の声によって知らされる。第五巻「第三 模擬死刑の午後(結)」における冬木二等兵の発言がそれだ(戦場であれ殺人は拒否すると上官に対し表明した冬木は、「上向けて、天向けて」銃を撃てばいいのだと説く)。これに繋がる一連の場面は、『神聖喜劇』において最高度のエモーショナルな瞬間を露呈させる。些細な罪を犯して数名の上官らに翻弄され、「模擬死刑」に処せられつつある「ガンスイ〔愚者。頓馬〕」末永二等兵を救うべく、東堂は「止めて下さい」と絶叫する。そして「ほぼ同時に、さながら山彦のように、もう一つの絶叫が」冬木によっても発せられるのだ。つまりここに到ってついに、物語上の出来事の中で実際に声の多重化が生ずるわけだ。「『止めて下さい。』という二つの叫び」は、村崎一等兵の呼び掛けを介して続々と賛同者(複数の声)を増殖させてゆく。このことは、『神聖喜劇』という作品の内部のみに留まりはしない。わたし自身もまた、大西巨人の記した多種多様な言葉(呼び掛け)によって「教育」を受け、新たに声を上げた者の一人だ。『神聖喜劇』が読み継がれる限り、「別様の何か」の可能性を示唆する声が途切れることは決してないはずだとわたしは確信している。
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