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小説『鰓呼吸。』 #1(いずみ)

ーーいったいどういう気持ちでこの絵を描いたのか?

いずみはポール・ゴーギャンの絵の前で立ち止まり、かれこれ10分ほど作品を凝視していた。
タイトルは「花束」。1897年の静物画で、背の低い籠なのか、花瓶なのか、焦げ茶色の入れ物から鮮やかな花があふれている。手前に描かれた赤い花が印象的で、画面左下には洋ナシのような果実が4つ転がっていた。

絵画の横にある説明書きをもう一度見る。ゴーギャンは、愛娘を亡くし、病気に苦しんで自殺を図ったが失敗・・・その直後にこの絵を描いたという。

ーー絶望している人間にこれが描けるのか。

当時のゴーギャンは、目の感染症に梅毒の後遺症があったらしい。
芸術家としては致命的で、再起不能になってもおかしくないゴーギャンの状況を知って、いずみの眉間の皺はさらに深くなる。
梅毒の後遺症には、神経麻痺や認知症のような症状があるらしい。

さっきまで睨みつけていたいずみの表情が泣きだしそうに変わっている。

「すみません、混雑してきましたので先に進んでいただけますか?」

係員がいずみに声をかけた。
平日といえども人気の展覧会は混んでいる。シニア層を中心にフロアが来場者でいっぱいになっているのにやっと気づく。
係員に会釈だけして次の絵に進んだが、赤い花のインパクトが消えず、結局そこから先の展示にはあまり興味を持てないままだった。

世界的な芸術家とアジアの片隅で生きる小市民である自分の心情を重ねることが馬鹿げた行為であると、もちろんいずみだってわかっているが、約130年前、絶望の渦中にいたであろう、その画家の描いた絵のパワーに圧倒されずにはいられなかった。

そのくらいには、いま自分が絶望している自覚が、いずみにはあった。
原因はわかっている。あとは認めるかどうかだった。

ーーやっぱり追い出すべきだったのか。いっそ警察に通報だったのか。

スマホで時間を確認すると、LINEの未読が21件。赤く小さな丸で知らされていて、またゴーギャンの静物画の赤い花を思い出していた。

ーー戻らなきゃ。

夕方の会議はリアル開催だ。コロナ禍が去り(実際に去った訳ではないが)会議や打ち合わせがリモートから顔を合わせての実施に戻っている。
クリエイティブ会議ではリモートだと伝わらないニュアンスみたいなものが、リアルだと1発で解決したり、企画案のブレストがやりやすかったりと利点も多い。

一方で、顔を合わせたくない人と同席する心的苦痛から解放されるリモート会議と違い、これからある会議のような、同室にいるだけで時々胸がギュッとなる相手とも向き合って話さなければならない。

今日は、いま抱える個人的な絶望とは別に、過去の絶望の相手と直接対決する日だった。仕事については誠実に向き合いたいし、上司だからといって譲れないことだってある。いずみは高層ビルの合間に広がった青空を見上げた。

ーー快晴! perfect

暖冬だというので今年はまだダウンコートを出していない。数年前に買った黒いキルティングコートのボタンを上まで閉めて、耳にワイヤレスイヤホンを突っ込んだ。

ーー今日、帰ったら話そう。タカシが寝てなかったらだけど。

同居の元カレが自分の金を勝手に使い込んだ話より、まずは、今日の会議でいかに自分のプランを通すか・・・いずみはそっちに集中することにした。

ーーしっかりしろ。私には仕事しかないんだから。

絶望の中でゴーギャンが描いたという赤い花を思い出しながら、小走りで横断歩道を渡り駅へ向かった。


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