言葉は深海魚 #ことば展覧会
私は人生に一度だけ、後にも先にも一度だけ、コトバと話した事があるんです。
コトバ「を」ではなく、コトバ「と」です。
これを読んでいるアナタは何をまた突拍子も無いことを、とお思いかもしれません。当たり前です。私だってそんな事をいきなり、しかも見ず知らずの人に言われたら、見て見ぬ振りをして通り過ぎるでしょう。これはそういう類のお話だと思って頂いて一向に構いません。
今からちょうど十年前でしょうか。私が三十五歳の時。発作性のめまい症になりました。初めは嘔吐を繰り返し、だんだんと緩やかに治っていき、二週間くらいでやっと外を一人で歩けるようになった日の事でした。
近所を散歩中に橋の上から隅田川をぼんやり眺めていると異物が目に入りました。初めはゴミかと思いましたがやがてそれには目と鼻と口がある生き物だとわかりました。次に「珍しい魚かもしれない」と気づきました。全身ゼリー状の皮膚で覆われたとてもデリケートそうな小魚。「なんて気持ちの悪い色と形をした魚なんだろう」私がそう思っているとその気持ち悪い小魚が水面に浮かんだまま口をパクパクさせて話しかけてきたのです。気づくと小魚は私のすぐ足元まで近づいていました。
真っ暗でやんす。
自分が溶けて無くなったんじゃないかと思えるほどの暗闇でやんす。
気が遠くなるほど広大なのに息が詰まるほどの暗闇でやんす。
しかるべき深さにしかるべき水圧を伴っている海の底のような場所でやんす。
アタイ達はそういう場所で静かに暮らしていたんでやんす。
ところがここ何年も穏やかな生活なんてありゃしません。
毎日毎時毎分毎秒、どこかの誰かが捕まえられては無理やり表に引っ張り出されるんでやんす。
無理やりでやんすから、もう、ほら、圧力の関係で、ね、ほら、色々と崩れるでやんす。
元いた場所なら美しかったモノも表に出たら酷いもんでやんすよ。
だからね、旦那、アタイ達のことはなるべくそっとしておいて下さい。
どうしても必要な時はもっともっと丁寧に扱ってくれなきゃ困りますぜ。
ま、今日のところはこんなもんで引き上げるでやんす。
旦那もお大事にして下さいましな。
「おい、お前、いや、君は一体何なの?」
「もうこれだから旦那には困っちまいやすぜ。アタイのこともわからないんですから。しょうがない今日は特別でやんすよ。アタイはコトバでやんす。それじゃごめんくださいまし」
その奇怪で気色悪い深海魚のような生き物はブクブクと泡を残して沈んで行ったのでした。
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これは、拝啓 あんこぼーろさんの企画に参加したショートストーリーです。