百合が芽吹き始める頃に
はじめに言の葉ありし 言の葉は神のかたはらにあり 言の葉は神なりし
先逹の少納言より懸想文をいたゞいた。
ひとめで見解いた。このふみは異國外つ國の智慧をもってしたゝめられている。おそらくは唐國よりも外にある、思いもよらぬ世界の経典を學ばれたのだろう。いづれにしてもわたしは、先逹の嗜みぶりに驚き舌をすぼませてしまった。
さてしも不思議なのは、いかなるゆゑでわたしに懸想文をお贈りなされたということだ。たゞちにお逢いして語らいあうゆかりもなく、屋敷の房でひとり、ふみをしたゝめている先逹の気色を思いやる。まさに、いとをかし、と言うべきこゝろを覚えたる。
九夜のあいだ わが槍にいたみ 歐傳神の贄にならんと われとわがみをおのれにさゝげ 風にゆらぐ御神木の 根ざしいかなるものともしれず彼岸の木にくびられんとす
後世である紫の妹より、わたしの懸想文の返り文が届いた。細やかなる斐紙に飾りが加えられていて、さらにほのかなる匂いがあるゆゑに、墨に薫物がうちまじるのを知る。
わたしは思い馳せる。佛羅倫斯(フィレンツェ)という外つ國に棲む般若波瑠霊喰太(ハンニバル・レクター)というおゝきみは、扁桃実(アーモンド)の保湿乳脂(ハンドクリーム)の匂いを便箋に染めた。未曾有の来世は、無為なる陰陽道の術を遣い尽くせば、まぼろしを見るが如く智慧を得ることが叶う。
わたしは言の葉のからくりに目を止めている。
紫の妹の言の葉は物語るということを、人のこゝろの動きをしたゝめるわざを習い得ている。
わたしは言の葉そのものを唯物論、即ち説一切有部の四大種として、わたしのうちで咀嚼したのちにこゝろ得ようとしている。
それゆゑに、わが少納言と紫の妹の違い、即ち多様性という来世の言の葉をわたしは信ずるのだ。わたしと妹の本性と作家性が水と油の如くまじわらぬのであれば、わたしはなおのこと妹を愛でたくなるのだ。
目に挿れても痛みはせぬ。しとゞなる膏が溢れて異物を和らげてくれる。
のちにふたりは、あらたなる懸想文を互いの房に届けあった。二、三日のあいだを経て、従者を遣いふみを差し取らせた。もし遂歌(ツイッター)や羅韻(ライン)と名乗る、魔法の陰陽道の術で動く大箱小箱(パソコン、スマホ)を用いた、語らいの遊戯(SNS)があれば、ふみをしたゝめている今の時に(リアルタイムに)互いの筆さばきと息づかいが傳わるならば、いとかくしも嬉しきことだろう。しかれども、是非に及ばざるを得ない。現世は従者を遣うことにより長き時を待たねばならない。ゆるやかなる時に身を任すのが平安の世の常となる。
ある日、ふたりのうちいづれともなく、おのづとかゝる意趣が交わせられた。定まれし日と時に、互いの房で文机に向かい、もろともにふみをしたゝめよう。来世ではそのことを碼留守(バルス)と言う。わたしたちも碼留守を嗜もう。果たせるかなそれはゆるやかなる平安の世ゆゑに叶う、ひとゝせにひとたび御座す七夕姫と牛郎公の如き情があった。始終おとなしく待ち嘆く。忍びに忍びを重ね継ぐ。溜まりに溜まりし思い、ついに爆ぜたる。げにこれぞ平安の世の雅びを司るふたりにしか叶わぬわざとなった。
ときしも神の示現 柴のうちに燃ゆる焔より顕れ給ふ
神は宣ふ われは有りて在る者なり
霜朽ちる膝のまゝに訪るものぞ 焔を賜らん
深山を越ゆるものぞ 饌と衣を賜らん
ついにふたりはしたゝめはじめた。遠く隔たる所で(リモートワークで)同じ時に(タイミングを併せて)息を含みて漏らすかのやうに(リラックスしながら)貝合わせになぞらえ唇を重ねるが如く(百合の花が咲き乱れて)ふたりは爆ぜた。
先逹の少納言は外つ國より猶太教(ユダヤ教)の経典(旧約聖書)を写す。
後世の紫の妹も外つ國より歐傳神(オーディン)の逸話(エッダ)を写す。
写されしものは日本國のあらたなる肉叢となりて風雅を深めあげてゆく。
斐紙を滑る筆は肌を撫でる指のやうに言の葉をやさしく愛でる。筆の動きは曲がり捻れ跳ねて唐猫の尾の如き若々しさをあらわし、筆の毛先におゝらかに染みる墨は体液に似てとろりと垂れる。
ひともじひともじをしたゝめる如に世界は作られていった。わたしたちの世界だ。わたしたちふたりが愛を交わすことで生まれた子だ。ちいさくてうつくしい、目に挿れても痛まない子だ。痛みはしない。身のうちよりこゝろを酔わせる薬が湧いているがゆゑに。
ついになまめかしき筆の動きにあわせて、したゝめられたかなもじに命が宿る。かなもじが虫のやうに蠢く。平らゝかなる斐紙より芽吹くやうにかなもじの糸蔓が伸びあがる。十二単の袖のしたにかなもじは忍びこみ、衣を脱がすやうに、裸姿になり共寝を誘うかのやうに、おうなの肌を甘く噛む。
碼留守
絶頂(エクスタシー)の言の葉をふたりは歌う。
殿方との情愛は不用だ。
了(文字数1991文字)
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