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なんで"楽する"ことを"努力する"のか

「今の時代、しようと思えばいくらでも楽できる。けれども、自分の大義をあえて見つけ、努力し、困難があろうとも乗り越え、成し遂げよう。そんな人生を選ぼう」

社会人になって、インターンしていた会社で、ハッとしたのを覚えている。何かに熱中できる、自分の価値を発揮できることが目の前に現れ、救われた気持ちだった。

そこから数年間、まるで楽することに強迫観念があるかのように本当に四六時中、自分の思いつくでき得る限りのことをしていた。(ライフワークバランスや残業なんて概念がなかったし、素直にお金を払ってでもお仕事をさせて欲しいと思ってた)

実際にアンコンフォートな環境に自ら飛びこんだ経験は、自分で選んだ困難だからこそ、辛いことがあっても楽しめたし、みんなで乗り越えた時の達成感は凄まじいものだった。

これが当時から今でも私の大きな価値観の一つになっていて、この軸を据えているかいないかで、普段の何気ない意思決定がまるっきり変わっていった。この言葉にはそれぐらいすごいパワーがあった。

しかし、数年が経ち、ある疑問でモヤモヤするようになった。自分が実際に作っているサービスの根幹は、楽できることのような気がしたからだ。ユーザーのニーズに応えるために、もっと簡単に情報が手に入る。もっとストレスや不安のない、時間も手間もかからないもの。それがユーザー体験を作るデザイナーの良し悪しの基準だった。

自分たちは楽せずに果敢に困難を選ぶ人生を「良し」をしているが、社会に対しては、「良くない」としている楽するきっかけを与えているとも言えるのではないか?楽できるものを苦労して生み出しているこの構造に、ジレンマを感じていた。

どのような環境下で人は楽を、苦労を望み、そして人が幸せに生きていくにはデザイナーは、サービスは、それをどう設計して分かち合っていけばいいんだろう?

転職時に自省する中で、これついて改めて考えてみることにした。否定的になったわけではなく、当時も今も、どちらも直感的に美しく感じる。が、なぜそう思うのかをスッキリさせたくなった。

どうして楽しようとするのか。

「楽をする」ことは、目的によって良し悪しが分かれるから面白い。私だったら、机片付けなきゃと思うと億劫だし、現金は面倒くさいし、運動は疲れるからやりたくない。直感的に考えると、楽して億万長者になりたいし成功者になりたい。

生物は、基本的にエネルギーを節約しようとする。

生存や繁殖の確率を下げるものにエネルギーを使う生物は、長い歴史の中で淘汰されてきたから。シンプル・簡単・快適・楽なものを心地よい、快楽だと思うようになっているという。

(ちなみに行動に限らず思考自体でも、いちいちエネルギーを使わないように、ヒューリスティクスを用いて経験則や直感でシンプルに変換し、決断する)

だから、浮かび上がった不便さは解決するべき課題として早い者勝ちでより便利な商品とされ、「だってそっちの方が楽じゃね?」とぐるぐる経済を動かしていく。

このもっと楽できないかと精神的・身体的な負荷を避けるために「工夫すること」がデザインの本質の一つで、それが人間を人間たらしめるものとして現代社会をここまで発展させてきたと思う。

また、人は一度楽ができると、その有利に働いて快楽を得られたことを反復・習慣化しようとする。

ハマったお菓子を何度も食べたくなったり、逆に一度噛まれたらどんな犬でも警戒するようになったり。

緊張して普段できることがおぼつかなくなることがあるけど、あれは新しいことに挑戦することへの回避反応で、現状を維持しようとする働きともいえる。

どうして楽ばかりはしないのか。

ここまで、楽することは、生き物として自然な行為だということは分かった。しかし、どの時代でも楽ばかりしているとお母さんに怒られるのはなんなのか。

確かに、栄養チューブに繋がれてベットの上で一生過ごしたいかと言われたら戸惑ってしまう。なぜだろう。それは、人が生き物の中でほぼ唯一「退屈」する生き物だからだ。安定して快楽を繰り返していると、退屈を感じて新しく刺激や興奮を求めてしまう。

当たり前のことだが、よくよく考えると意味が分からない。二律背反すぎないか、、?これについてはたくさんの議論があるみたいだけど、そこは置いておいて、今回このことから学びたい大事なことは、その「なんとなく退屈だ」と感じることに、人は思ったより恐れているんじゃないか、ということだ。

一般的に、挑戦をするときにリスクばかり考えてしまったり、一歩が踏み出せないと悩む人は多い。しかしそれと同じように、目の前の達成事項に夢中になっていたが、ふと思い返すと、実は退屈から目を背け、気晴らしをし続けていただけだった。

このような、退屈との向き合い方において気付かぬうちにつまづいてしまっていることも日常に溢れており、生きる上で大事なことなんじゃないか。

快楽と退屈を行き来できている人。

快楽と退屈の循環。快楽を反復して退屈になり、刺激を求めて新しい快楽を楽しむ。このサイクルをきちんと回すことができると、新しいことに快楽を感じ、新しいことに退屈できるようになる。よくよく考えると当たり前だけど、これがいわゆる"成長"とされるものなんじゃないか。

快楽と退屈を行き来できる理由は、ちゃんと退屈を吹っ飛ばして、次の楽しめることに挑戦しているから。


  1. 快楽を反復する

  2. 退屈を感じる

  3. 退屈を吹っ飛ばす

  4. 新しい快楽を手にいれる(1に戻る)


このサイクルを回すのはすごく簡単そうに感じるけど、3の退屈を吹っ飛ばすには、実はかなりの勇気と熱意が必要になると思う。

退屈から抜けきれず、ずっと抱えている人。

では、先ほどのサイクルを抜けきれない状態はどのように起こるのか。退屈を吹っ飛ばすためにする行動が、空回りしている状態と言える。


  1. 快楽を反復する

  2. 退屈を感じる(ここまでは同じ)

  3. 退屈から目をつぶって、時間を消費してやり過ごす

  4. 同じ快楽を反復するので、退屈が晴れない(3に戻る)


何かしなきゃ退屈を感じてしまうけど、行動する時間もお金もない。才能もない。特別困っていることも、熱意を持てる大義もない。

やるべきことがないと、何もない状態、むなしい状態に放っておかれることになる。何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなる。逃れたくなる。何もすることがない状態に耐えられない。

心地よい場所から離れるのは苦しい。でも、自分を行為に取り立ててくれる動機がないことの方がもっと苦しい。何をしていいのか分からない苦しみ。

だからそこから目をつぶるために、時間を消費できるものを探してしまう。とりあえず今はSNSを見て暇を潰そう。とりあえず大学に行ってみよう。今はこれが流行っているからこれを買ってみよう。

このように、自分の本当の満足できることを足がかりにしないで、外側に基準を持ってイメージや記号、情報、観念だけを受け取ると、“この店”の流行が終わったら、次は“あの店”、、と外の基準が変わったら、どんどん満たされなくなってしまう。だから更に消費を続ける。ふとした時に退屈は続く。

このような「誤魔化しの気晴らし」は、なんとなく退屈な状態から逃れるためにしている行動だったとは認識するのは難しい。だからこそ、悪循環に陥っていることにも気づきづらい。

学生時代、忙しいことで救われていた時期があった。忙しければ忙しいほど充実しているように感じて、何かできてるその状態に、すごく安心していた。退屈の声が心の底から聞こえると、急いで耳を塞いでタスクツールを確認していた。今考えると私にとって、その時間で何を成し得るかは大きな問題ではなく、まさしく「忙しさの奴隷」そのものだった。

新たな快楽を求め続けること

ここまで、快楽と退屈のサイクルを回すことについて、いかに現代社会に溢れ、躓きやすいものなのかを考えてきた。

長々話してきたが総括して伝えたいことは、人の幸せは、いかにして「快楽を得ているか」ではなく、いかにして「快楽を求めることができるようになるか」が大きく左右しているのではないかということだ。

楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件の元に生活していることよりも、むしろそうした自分の本当の満足できるものを心から求めれること、それこそが大事なんじゃないか。

これの行為自体を「デザイン」と呼べると思うし、その原動力が「熱意」なんじゃないか。そして、それを繰り返すことこそが、「成長」と呼ばれるものなんじゃないか。アンコンフォートゾーンにしか成長はない。そう思う。

喜びや満足は、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある

ガンジーのこのセリフも、これを踏まえるとさらにジーンときちゃう。本当にそうですね。

そして、私が作っていたサービスは、確かに楽することができるものとしても切り取ることもできるけど、それよりも、誰かの新しい快楽を求めるその勇気ある一歩のための背中を叩く。そのことを通じて、成長を、世の中の幸せを増やすことができている。

だからこそ、楽のできるデザインを作ることに価値があると言えるし、今までと変わらず、そんなデザインを退屈を恐れずに作っていきたい。

そんな風に思ったお話でした🌸


参考文献
・私たちの誰もが世界を正しく知覚できない ジョン・ブロックマンhttps://diamond.jp/articles/-/232944
・暇と退屈の倫理学 國分功一郎 新潮文庫、2021年
・生物から見た世界  ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳岩波文庫、2005年


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