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僕は文章がかけない2


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

『風の歌を聴け』村上春樹 7頁

村上春樹はこう語ったあと、8年間という長い間、口を閉ざし何も語れなかった期間があったことを告白する。そして、その期間を経たあと不安を残しつつ語りはじめる。なぜ自分は語れないという所から始めなくてはならなかったのだろうか?僕なりの解釈を話すと、村上春樹の文章を書く上での倫理ではないのだろうかと思う。
僕は、SNS上に書かれている文章を読む度に困惑してしまうことがある。なぜ、皆あんなにも饒舌に文章を書けるのであろうか?たとえば戦争について語ることにしても、ある種の困難さつきまとう。語るたびに実際の戦争から離れてしまうような感覚がある。現実とはそういうものではないのか、と思う。
「現実というものは人間には語ることができない。」村上春樹はこう考え絶望し、文章がかけなくなってしまった。それでも文章を書くことを欲していた。なぜだろう?それについてはこう書かれている。

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養のささやかな試みである。

『風の歌を聴け』村上春樹 8頁

何から回復してどのような状態になりたいのか?正直、今の僕にはわからない。よく言われているかも知れないが、自己療養の原因が恋人の自殺だったり、学生運動の挫折であったり、手近なところで原因を見つけることはできるであろう。しかし、村上春樹が傷ついた原因を見つけることに僕の興味は向かない。興味があるのは一度文章を書くことに絶望した人間が、傷ついた自身の回復手段として、なぜまた書くことを選んだのだろう?
プラトンは『メノン』の中で、「問題の解決を求めることは不条理だ」と語る、なぜなら、なにか探し求めているものがわかるとすればそこに問題は存在しないし、逆にもし何かを探し求めているものがわかっていないなら、何かを発見できるはずがないからである。
たぶん、村上春樹は問題と解決方法が明確にわかっているわけではない。しかし、直感があったのだと思う。傷ついた自分がいる、それは自己認識のできる。そしてそこからの回復手段として、文章を書く、という不可能性に向かって考え、表現することで完全回復とまではいかないまでも、回復できるささやかな試みぐらいにはなるだろう、と直感したのだと推測する。
そして書くことの出発点として書くことへの絶望を書くところから始める。僕もそこから始め、なぜ書くのか問わなくてはいけない。なぜならそれが書くための倫理であるから。


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