小津安二郎と高畑勲の淋しさ について

 小津安二郎と高畑勲のフィルムを観るたびにある種淋しさを感じてしまうのはなぜだろう。彼らは、我々と同じ人間社会の一員ではなく、その外側にある空白地帯に彼らはいる。そこから人間社会を観察した結果が、彼らの作品のように感じる。その空白地帯は、神の視点ではない。そこには延々と続く"無"しかないのだ。その場所に対しぼくは恐ろしさや、淋しさ、狂気を覚える。例えば高畑勲で言えば『火垂るの墓』にておじさんが清太に対して社会復帰を促すシーンの清太の表情、節子が死んだときの清太の無表情な顔....あの視線の先は現実を捉えているが、視線の奥には何もない"無"が広がっているように感じる。
 小津安二郎の作品に『おはよう』という作品がある。この作品は、どうにかして子供が親にテレビを買ってもらおうとするというだけの他愛もない内容だが、『おはよう』の中にはこんなセリフがある。このセリフは父親が「お前は無駄な口数が多すぎる」と叱った後に子供が言い放つセリフだ。
<大人だって、無駄なことばかり言っているじゃないか、「お早う」「こんにちは」「いいお天気ですね」「どちらへお出かけ」「ちょっとそこまで」…。>
 『おはよう』はコメディ風に作られているが、この作品では笑いも不安も紙一重のように思える。この子供の発言はおかしくもあるが、同時に不安を覚えてしまう。この子供の立場は"無"であり、その視線の先も"無"返してしまう
高畑勲に関しては生き方ですらそう思える。鈴木敏夫の証言では、高畑勲は作品を作る際、納期、予算、マーケティングを全く意識せず際限なく時間と金を使いまくって作品を作っていた。納期、予算はこの社会の中で作品を作るためには守らなければいけない。高畑勲は社会の外側、あの空白地帯に立って作品を作っていた。彼にとって作品を作るということは自身をあの"無"に近づけるということではないのだろうか?事実、高畑勲は作品を作り終わったら死んでもよいと思っていたらしい。

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