フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 第二省察 読書メモ
第二省察
第十二節
過去把持と未来予持は、時間的幅を持った現在の地平をなす、「たったいま」すぎさったものを「まだ」保持する、あるいは、「いますぐに」来らんとするものを「もう」先取りする、非主題的な働きを指している。
あらゆる種類の現実の経験と、知覚、過去把持、想起、等々といった、その一般的な変化の様態には、それぞれに応じた純粋な想像や、それぞれ並行する様態をもった「かのように経験」が属していることを考慮するなら、純粋な可能性の領土にとどまるアプリオリな学問が存在することも期待できる。
それは、超越論的な存在の現実性についてではなく、むしろアプリオリな可能性について判断し、したがって同時に、現実に対してアプリオリな規則を粗描するような学問である。
フッサールにとっては、「超越論的主観性」は「経験」の場から離れたところにあるわけではなく、あくまで「経験」という場のなかで機能しているものとして見いだされるのである。
超越論的還元の態度に置いて知覚されたもの、想起されたもの、等々として与えられる思うこと(コギタチオーネス)ですら、すでに絶対的に疑いなく存在するもの、存在したもの、等々であるとはけっして主張できない。
しかしそれでも、我あり(エゴ・スム)がもつ絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいるということがおそらく示される。
「我あり」の空虚な同一性が、超越論的な自己経験の絶対に疑いのない内容となるわけではなく、自我のもつ、普遍的で疑いの余地がない、経験の構造(たとえば、体験の流れの内在的な時間の形式)が、現実的および可能的な自己経験において個々に与えられるものの全てを貫いて広がっているーそれらが個々には絶対に疑いえないものではないにもかかわらずーということ、これである。
自我が自分自身にとっては、体験や能力や素質の個々の内容を伴って具体的に存在するものとして、疑いの余地なく粗描されていること、しかも、経験の対象として地平において粗描されていること、そして、これが可能な自己経験によって近づくことのできるようになり、この自己経験は無限に完成され、場合によっては豊富にされるということ、これらのことである。
第十三節
超越論的現象学と呼ばれる学問的作業は、予想するところによれば、二つの段階において行われなければならない。
第一に超越論的な自己経験の広大な領土が遍歴されなければならない。調和的な流れに内在する明証にただ身を任せて。
明証が及ぶ範囲を決めるにあたって、疑いの余地のない原理に対して考えられる、究極的な批判吟味という問いは、留保しておく。
この第一段階では、十分な意味でまだ哲学的でない。自然科学者が自然の経験の明証に身を委ねているのと同じように振る舞うことになる。
第二段階は超越論的な経験を批判的に吟味すること、およびそれに基づいて、超越論的な認識一般を批判的に吟味することに従事する。
この段階を踏まえると、独特の学問が生まれてくる。現実及び可能的な超越論的経験において与えられる具体的な超越論的主観性についての学問であり、これまでの意味での学問に対して全く対立するような学問である。
この学問の対象は、世界が存在するかしないかについて決定的な関わりなく、存在している。
その学問の最初で唯一の対象は、哲学するものとしての私の超越論的な我(エゴ)であり、また、それのみであり得るかのように思われる。
超越論的還元の意味には、それが初めは我(エゴ)とそのうちに含まれているもの、ただし無規定的な規定可能性の地平を伴ったもの、これらのほかは何も存在するものとしない、ということが含まれている。
この学問は一種の独我論と宣告するかのように見える。
それは、他の超越論的我が存在するかどうか見極めることができないから。
自我論は、「自我についての研究・学問」
独我論は、「我一人のみが存在するという主張・考え方」
超越論的な我(エゴ)への還元は、一見すると独我論にとどまる学問という印象を伴っているかも知れないが、それがその固有の意味に従って一貫して遂行されると、それは超越論的な間主観性の現象学へと導かれ、これを介してさらに、超越論的哲学一般へと展開されることになろう。
間主観性とは相互主観とも訳される。
実際に、超越論的な独我論は、哲学的には提示の段階に過ぎず、それに対して超越論的な間主観性の問題圏はより高次に基づけられた段階にあり、この問題圏を正しい仕方で持ち出すことができるためには、超越論的な独我論がそのようなものとして、方法的な意図から限界づけられなければならない。
デカルトとは違って超越論的な無限の場を開示する、という課題へと掘り下げていく。
第十四節
我思う(エゴ・コギト)の超越論的な明証の重心を、今や同一の我(エゴ)から多様な思うこと(コギタチオーネス)へと、それゆえ、(省察する者である私の)同一の我(エゴ)がそのうちに生きている、流れる、意識の生へと移すことにしよう(この明証の疑いの余地がないことがどこまで及ぶか、その範囲の問いは保留したままで)。
このような研究結果に向かうことは、純粋に内的な経験または自分に固有の意識の生の経験に基づいて、心理学的な記述を行うことにほかならない。
意識についての純粋心理学は、意識についての超越論的現象学にちょうど並行するものであるが、にもかかわらず、両者は厳密に区別されなければならない。
両者を混同することは、超越論的な心理学主義の特徴であり、これは真の哲学を不可能にするものだ。
世界はそもそも、現象学的態度においては現実としてではなく、ただ現実の現象として効力をもっているからである。
あらゆる世界内部の存在に関して判断停止(エポケー)をしたとしても、世界内部のものに関わる多様な思うこと(コギタチオーネス)が、それ自身のうちにこの関わりを含んでいること、例えば、この机の知覚は、判断停止(エポケー)後も、その前と同様に、まさにその机の知覚は変わらない。
およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である。
「自然的な態度」とは、我々がごく普通に日常的な生活を送っている時、そのことを意識しないまま、すでに世界の存在そのものを信じている(「世界信憑」と呼ばれる態度をとってしまっていることである。
すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何かしらのものを思念しており、この思念の仕方でそれ自身ののうちにその都度思われたこと(コギタートウム)を伴っており、
すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。例えば、家の知覚は家を、正確には、個別の家を思念しており、それを知覚という仕方で思念している。また、知覚に於いて「そこにある」その家についての述定的な判断は、その家をまさに判断という仕方で思念してるし、それに加わる価値づけはまた新しい仕方において、等々と、それぞれ思念している。
意識体験を私たちが志向性とも呼ぶとき、この志向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわち思うこと(コギト)としてその思われたこと(コギタトーウム)を自らのうちに伴っていること、他ならぬまさにこの事を意味している。
「思うこと(コギト)と思われたこと(コギタトーウム)」(あるいは「ノエシスとノエマ」)は相関として語られる一方、他の節(第九節、第十九節)で論じられる「地平」についての考察は、そうした相関の図式をはみ出すものを持っている。この「地平志向性」の発見は「志向性」の思想を決定的に飛躍させる。
第十五節
さらに詳しい解明のためには、「直進的に」行われる、把捉(はそく)しながら知覚すること、想起すること、述語づけること、価値づけること、目的を建てること等々、これらを反省から区別する必要がある。新しい段階の把捉する作用であるこの反省によって、まさにその直進的な作用が初めて開示される。
私たちは例えば家を把捉しているが、知覚することそのものを把捉してはいない。反省において初めて、近くするそのものへ、そしてその家に知覚において向かっているというそのことへ「向かう」ことになる。
心理学的な反省において(それゆえ、自分の心的体験についての心理学的経験においても)も私たちは、存在するものとしてすでに与えられた世界という基盤の上に立っている。ちょうど私たちが日常生活の中で、「私はそこに家を見ている」とか「私はこのメロディを聞いたのを覚えている」などと言うときがそうである。
超越論的現象学的な反省においては、世界が存在するかしないかについて、普遍的に判断停止(エポケー)することにより、この基盤を働かせなくする。
自然的な存在の定立とは、もともと直進的に遂行された知覚、あるいはそのほかの思うこと(コギト)、が自らのうちに含んでいたものであり、また、直進的に世界に入り込んで生きている自我が、実際に遂行したものである。
いま問題にしている反省は、以前の素朴な体験をまったく本質的に変えてしまい、まさに直進的にというもともとの様態を失うことになるーしかもまさに以前は体験であって対象的ではなかったものを対象する、ということによって。
それゆえ、反省の課題は、もとの体験を反復することではなく、それを観察し、そのうちに見いだされるものを解明することにある。
このような反省によって、経験の知、さしあたりは、記述的な経験の知も可能になるのだ。
反省する自我の側で、例えば家の直進的な知覚がもっている、存在に対する態度を共有しないからといって、自我を反省する経験が、以前のそれに属していて、今なお属している、すべての契機とともに、まさに家の知覚という経験であることこのことには何ら変更を加えるものではない。
そしてこれらの契機には、私たちの例で言えば、流れる体験としての知覚そのものという契機とともに、純粋にそれ自身として知覚された家という契機が含まれる。
そこには、一方で(通常の)知覚に固有な存在の定立(特定の知覚と信念)が欠けてはいないと同様、現出する家の側でも、端的に現にあるという性格が欠けてはいない。
現象学的な態度にある自我が、ともに行わず差し控えるということは、自我の側の出来事であって、自我によって反省的に観察された、知覚することの側の問題ではない。
世界のうちに自然に入り込んでいる経験をし、何らかの仕方で生きている自我を、世界に「関心を持っている」と呼ぶとすれば、現象学的に変更され、変更が維持されている態度の本質は、この素朴に関心を持っている自我の上に、現象学的な自我が「無関心な傍観者」として立てられることによって、一種の自我分裂が行われる、ということである。
「無関心な」と言いながらも、観察し十全に記述するという、それだけが彼に残されているような関心をもった傍観者という態度をとることを要求する。
普遍的な学問としての哲学という理念は、絶対的で普遍的な批判吟味を要求するが、このような批判はさしあたり、なんらかの存在者をあらかじめ与えるような態度をすべて差し控えることによって、絶対に先入観から免れているような世界(ウニヴエルスム)を、つくり出さねばならない。
これを可能にするのは超越論的な経験とその記述がもつ普遍性である。
超越論的な反省が純粋に与えられたのもに結びついている。それゆえ、これらあたえられたものは、端的な名称において純粋「直感的」に与えられるがまま受け取られ、また、純粋にみられたものを超えるような、あらゆる付加的な解釈から自由になっているのでなければならない。
思うこと(コギト)と思われたもの(コギタートウム)(思われたものとしての(クア・コギタートウム))という二つの方向を持った方法的原理にしたがっていくとき、個々のそのような思うこと(コギタチオーネス)について相関的な方向において行われる普遍的な記述がまず開かれる。
確実に存在する、可能的なないし推測的に存在する、等々の存在の様態、あるいは現在に過去に未来に存在するといった主観的な時間の様態について記述することである。
こうした記述の方向を「ノエマ的」と呼ばれる。
これに対立するのは「ノエシス的」な記述の方向で、それは、知覚、想起、過去把持のような、思うこと(コギト)そのもののあり方、意識のあり方、しかも明晰性や判明性のように、それらに内在する様相的区別を伴った仕方に関わる。
私たちは世界を思われたもの(クア・コギタートウム)として保持している。
そのことは、意識のそれぞれの特殊な作用において思念されたがままの、あるいは、もっとはっきり言えば、取り出されて思念されたがままの、その都度個々の実在に関してのみ言われるのではない。
この世界は、一つの意識の統一において絶えず共に意識されており、この意識そのものが把捉するものとなりうるし、しばしば十分にそうなりもする。その際、世界全体は、空間時間的無限性という、固有な形式において意識される。
意識がどれほど変化しようとも、世界は存続している。
現象学的還元に於いて、ノエシス的には無限に開かれた純粋な意識の生が存続しており、そのノエマ的相関者の側では、思念された世界そのものが存続している。
自然的な態度ににある自我としての私は、同時にそして常に、超越論的な自我でもあるが、私がこのことを知るのは、現象学的還元を行うことによってのみである。
自然的態度にある自我が態度変更を行えば超越論的自我となる。
世界全体とおよそすべての自然的に存在するものとが、私にとってあるのは、その都度意味を持っていて、私にとって効力を持つものであり、変化し変化の中で結びついている、私の思うこと(コギタチオーネスがもつ思われたもの(コギタートウム)としてであること、また、そのようなものとしてのみ、私はそれらに効力を与えているということ、こうしたことである。
したがって、超越論的な現象学者としての私が、普遍的で記述的な確認作業の主題として持っているのは、それぞれの意識の仕方の志向的相関者としての対象のみなのである。
第十六節
超越論的で記述的な自我論にとってと同様、「純粋内部心理学」(これは、心理学的基礎学科として完成される必要があるが)にとっても、記述的に内的経験から汲み取りつつ、我思う(エゴ・コギト)から始めるほかない。
現在でも支配的な感覚主義の伝統のために誤った方向に導かれて、感覚理論から始めようとすると、二つの意識理論への通路を閉ざすことになる。
そこでは、意識の生を初めから想定された自明性のために「外的な感覚」および(うまく行けば)「内的な感覚」の所与の複合と解釈してしまい、これらの所与を全体へと結合するために、形態質と呼ばれるもの(ゲシュタルト心理学)を考え出すことになる。
「要素主義(アトミスム)」を退けるために、これらの所与のうちでは形態(ゲシュタルト)が必然的に基礎になっており、それ故、全体は部分に対してそれ自体で先立つものだ、という理論を付け加えることになっている。
要素主義(アトミスム)とは心理学における原子論で、意識を感覚与件という構成要素に分解し、それを総和としてせつめいしようとする考え方。ゲシュタルト心理学が批判しようとしたもの。
しかし、根本から新たに始めようとする記述的な意識理論は、そうした所与や全体を先入観としかみなさない。初めにあるのは、純粋な言わばまだ無言の経験であり、それがまず、その固有の意味を持った純粋な表現へともたらされねばならない。
現に最初の表現は、我思う(エゴ・コギト)というデカルト的な表現である。それは例えば、私は知覚する、この家を知覚する、私は思い出す、ある雑踏を思い出す、といったものだ。
そして、記述の最初の普遍的特徴は、思うこと(コギト)と思われたものとしての思われたもの(コギタートウム・クア・コギタートウム)との間の区別である。
第十七節
意識の研究が持つ二面性は、記述的には、不可分に結びつき、ともに一つの全体をなしていること、として特徴づける。それは、意識を意識と結びつける結合の仕方であり、綜合という、意識の領域にもっぱら固有の結合の仕方である。
例えば、このサイコロを知覚する場合を、記述の主題として取り上げよう。そのとき、私は純粋な反省において、このサイコロが、特定の現出の仕方の、様々に形成され変化する多様なものにありながら、対象的に一つのものとして与えられていることに気づく。これらの現出は、その流れの中で、体験が関連のないまま並列していることではない。それらはむしろ、綜合の統一のうちで流れており、したがって、それらのなかで、同一のものが現出するものとして意識される。
このサイコロという同一のものが、(ともに現出する自己の身体のうちで)気付かれないままにいつもともに意識されている、絶対的なこことの対比において、こことかそこといった変化する様態の中で、あるときは近くに、またある時は遠くに現出する。
空間的場所としては、私が動くことによって、先程までそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそこになる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」とよんだ。
例えば、「ここの近くにあるサイコロ」というような様態をもって捉えられた現出の仕方はすべて、それ自身また、関係する多様な現出の仕方の総合的統一として現れる。
すなわち、近くの物は同一のものとして、ある時はこちら「側」から、またある時はあちら「側」から現出し、「視覚的なパースペクティブ」を変化させるだけでなく、それぞれの注意の方向に応じて観察できるように、「触覚的」「聴覚的」および他の現出の仕方をも変化させる。
「視覚的なパースペクティブ」をフッサールはおよそ視覚において、ある視点からの展望として観られる現象、したがっていつもある「側面」だけが現出するような現象をパースペクティブとよんでいる。もちろん、それは視覚だけではなく聴覚についても比喩的に語られようとし、さらにフッサールは、このような「空間的なパースペクティブ」のみならず、「今」を原点として過去と未来へ広がる時間のあり方をも、「時間的なパースペクティブ」と呼んでいる。
私たちが直線的に観ている時は、例えば、変化せずにとどまる形や色を見出すのに対して、反省的な態度においては、それぞれに属する現出の仕方、つまり、連続的な継起において互いに繋がっている方位づけやパースペクティブなどの現出の仕方を見出す。
そのつどの思うこと(コギト)がその思われたもの(コギタートウム)を意識するのは、区別のない空虚の中にではなく、ある記述的な多様性の構造を持って、つまり、まさにこの同一の思われたもの(コギタートウム)に本質的に属する、特定のノエシスーノエマ的な構造をもってなのである。
感覚的な知覚についてと同様に、それと並行する記述を、あらゆる直感について行うことができ、それゆえ、(後から直感化する想起や、あらかじめ直感化する予期といった)ほかの直感の様態についても行う事ができる。
例えば、想起されたものも、変化する側面やパースペクティブなどにおいて現出する。しかし、直感の様態の差異、例えば、何が想起の所与を知覚の所与から区別するか明らかにするには、新しい記述の次元が問題になるだろう。
にもかかわらず、何かについての意識であるという普遍的な性格が残っている。
これらの事実はすべて、(具体的な綜合的全体としての)個々の思うこと(コギタチオーネス)また他の思うこと(コギタチオーネス)に関しても、ノエシスーノエマ的な統一を与えるような、綜合的構造の事実とも呼ぶことができる。
第十八節
受動的に流れる綜合として、しかも、すべてを支配している綜合として現れるのは、連続的な内的時間意識という形式においてである。
(例えばサイコロの知覚の場合のように)意識の体験において思われたもの(コギタートウム)として現出するのが、世界内部の客観である場合、(例えば、このサイコロがもつ)現出する客観的時間性を、(サイコロの知覚が持つ)現出そのものの内的時間性から、区別しなければならない。
この現出そのものは、時間の広がりと位相をもって流れて行くが、これら広がりと位相は、同一のサイコロのもつ、連続的に変化していく多様な現出である。
それらの統一は綜合による統一であり、それは、思うこと(コギタチオーネス)が連続的に結合されること(ある程度、外的に互いに張り合わされること)一つの意識へと結合されることである。
そこでは、志向的対象の統一が多様な現出の仕方をもつ同一のものとして構成される。世界の現実存在、ここではサイコロの現実存在は、判断停止(エポケー)によって「括弧に入れられて」いるにも関わらず、同一の現出するサイコロそのものが、流れる意識にとって連続的に「内在的」にあり、記述的にその「うちに」あり、たとえ記述的にではあれ、そのうちで「同一のもの」なのである。
この「意識のうち」にあるとは、まったく固有な意味での「そのうちにあること」である。
すなわち、実質的(レエル)な構成要素としてうちにあることではなく、志向的な構成要素として、観念的(イデエル)(志向対象的)に現出するうちにあること、あるいは同じことではあるが、その内在的な「対照的意味」としてうちにあること、なのである。
意識の対象は、体験が流れる間もそれ自身の同一性をもつが、この対象は、外からこの意識のうちに流れ込んでくるのはなく、意識そのもののうちに意味として含まれる。それは意識の綜合による志向的な成果としてあるのだ。
しかし結局の所、多数を意識することや関係を意識することなどのように、同一でないものが統一的に意識されるような意識はすべて、この意味では一つの統合である。
それは、たとえこの綜合的な働きが自我の純粋な受動性として特徴づけられるようと、あるいは自我の能動性として特徴づけられようと、それがもつ思われたもの(コギタートウム)(多数や関係など)を綜合的に、あるいはこういってもよいが、統語論(シンタックス)的に構成するものである。
しかし、綜合はあらゆる個々の意識の体験のうちにあるだけではないし、時によって個々のものを個々のものと結びつけるというだけでない。むしろ、意識の生の全体が、綜合的に統一される。
意識の生はそれゆえ、その普遍的な思われたもの(コギタートウム)をもった、普遍的な思うこと(コギト)であるが、それは、その都度際立ってくる個々の意識の体験の全体を綜合的に自らのうちに捉えており、様々な段階において多様な個々の思われたもの(コギタータ)に基づいている。
考えられる個々の体験はすべて、むしろ、常にすでに統一的に前提された全体の意識から際立たせられたものに過ぎない。普遍的な思われたもの(コギタートウム)とは、開かれた無限の統一と全体のうちにある、普遍的な生そのものである。
あらゆるその他の意識の統合を可能にする、この普遍的な綜合の根本形式は全てを内包する内的時間意識である。
その相関者は、内在的な時間性そのものであり、我(エゴ)のうちにその都度反省的に見出される体験は全て、この時間性によって時間的に秩序付けられ、時間的に初めと終わりをもち、同時的あるいは継起的なものとして現出することになるーしかも、内在的時間の一定の無限な地平の内部において。
時間認識と時間そのものとの区別は、時間内部の体験あるいはそれがもつ時間形式と、対応する多様なものとしての時間的(テンポラル)な現出の仕方との間の区別、としても表現される。
内的時間意識の、このような現出の仕方は、それ自身が志向的体験であり、反省において、再び必然的に時間的なものとして与えられねばならないのであるから、ここで意識の生の逆説的な根本特性に出会うことになる。
というのも、意識の生は、こうしてまた、無限後退と結びつくことになるように見えるからだ。こうした事実を理解しながら解明することは、法外な困難を引き起こす。
我(エゴ)が不思議なことにそれだけで存在する。
意識の生が自分自身に志向的に遡って関わっているという形式で存在する。
第十九節
志向性がもつこの多様性は、顕在的な体験として思われたもの(コギタータ)を考察するだけでは、主題として尽くされていない。むしろ、全ての顕在性はそれぞれの潜在性を含んでいる。
「コギト」というのは、この「顕在的」な様相のみを表していた。「非顕在的体験」もまた「志向的体験」であり、「志向性は顕在的な様態において遂行されていなくとも、すでに背景において非顕在的・潜在的な様態において発動している」のである。「地平」という考え方が登場するのも、こうした脈絡においてである。
すべての体験は「地平」を持っており、その意識の関連が変化し、自分に固有な流れの位相が変化する中で移り変わる。それは、志向的な地平であって、意識の自分自身に属する潜在的への支持を伴っている。
例えば、知覚対象の本来的に知覚された側面は、別の側面を、つまりともに思念されているが、まだ知覚されてはおらず、ただ予期において、さしあたりは、非直感的な空虚をもって予測された側面をー「やってくる」、あらゆる知覚の位相で新たな意味を持つ、絶えざる未来予持としてー支持している、というような指示である。
そのうえ、知覚の流れを別の方向に向け、眼を例えばこうではなく別の方向に動かしたり、あるいは、前進したり横に移動したりしたら持つことになるであろう、別の知覚の可能性からなる地平を知覚はもっている。
例えば、私が活動を別の方向に向けていたなら、そのとき実際に見えていた側面の代わりに、別の側面を知覚していたことだろう、といった意識の場合である。繰り返して言えば、すべての知覚には呼び起こされるべき想起の潜在性として、過去の地平がいつも属しており、すべての想起には、潜在的な知覚の今に至るまでの、可能的な(私によって実現されるべきの)想起の、連続的で間接的な志向性が、地平として属している。
この可能性のうちには、「私はできる」と「私はする」、あるいは「私が現にするのとは別様にすることができる」ということが、ー他の点では、あれこれ具体的な自由が絶えず妨害の可能性に開かれているとしてもー入り組んでいる。
地平とは、予め描かれた潜在性のことである。
顕在的な我思う(コギト)のうちでいつも単に暗示ほどで含蓄的に思念されているだけの、対象的意味を露呈することになる。この対象的意味、つまり、思われたものとして思われたもの(コギタートウム・クア・コギタートウム)は、出来上がって与えられたものとして現前することは決してない。
それはその時の地平と、さらに耐えず新たに呼び起こされる地平との、このような解明によって初めて明らかになる。
例えばサイコロは、見えない側面についてはなお様々に未決定のままでも、それはすでにサイコロとしてあり、更に詳しく言えば、色がついていて、ざらついていて、等々と、予め「把握されて」いる。
この未決定のままになっていることは、現実に詳細に規定される(それはおそらく生じることはないであろうが)以前に、そのつど意識そのもののうちに含まれている契機であり、まさにそれが地平をなしているのだ。
現実に進行する知覚ーそれは、単に予想的に「表層する(思い浮かべる)こと」による解明に対立するのだがーによって、(思考を)充足しながら詳しく規定することや、場合によっては別の仕方で規定していくこと、が生じる。しかしそれでもやはり、開け(解放性)という新たな地平を伴っているのだ。
単に同一の対象(それは綜合の統一において、同一の対象的意味として、これらの意識の仕方に志向性に内在しているのだが)についての意識として、絶えず新たな意識の仕方へと移行することができるというだけでなく、それをまさにあの地平志向性という仕方でのみすることができるという本質的固有性である。
対象というのは、いわば同一性の極であり、あらかじめ思念され、やがて実現されるべき意味をいつも伴って意識され、それぞれの意識の契機のうちで、その対象に意味によって属するノエシス的な志向性のための仕業となる。
第二十節
デカルトにとって「分析」とは、「入り組みかつ不明瞭な諸命題を、段階的により単純なものへ還元」することであった。
意識の志向的な分析が、通常の自然な意味での分析(分解)とはまったく異なるものであることは明らかである。
志向的分析は、たしかに、何かに主題的に目を向けるときには、分割に導かれることもある。しかし、それが常に行っている本来的な仕事は、意識の顕在性のうちに含まれている潜在性を露呈することにある。
志向的分析は、次のような根本的認識によって導かれている。意識としての思うこと(コギト)はすべて、広い意味で思念されたものについての思念であるが、それぞれの瞬間に思念されたものは、それぞれの瞬間に顕在的に思念されたものとして現前しているものより以上のもの(より多くのものをもって思念されたもの)だ、という認識である。
それぞれの意識に含まれる、「自らを越えて思念する」ということは、意識の本質的契機とみなされねばならない。しかし、意識が同一のものについて「より多く思念すること」であり、またそう呼ばねばならない、明瞭化の可能な明証によって初めて示される。
そして、究極的には、私から発動する現実的及び可能的な「知覚の進行」あるいは可能的な想起という形で、直感的に露呈することがもつ明証によって初めて示されることになる。
しかし、現象学者の研究は、純粋に志向的対象そのものへとただ没頭することによって行われるのではない。志向的対象をただ直進的に観察したりその思念された特徴ないし思念された部分や性質を解明するものではない。というのも、もしそうであれば、直感的ないし、非直感的にいしきすることや、解明しながら観察することそのものを形成している志向性は、「匿名的(アノニム)」にとどまってしまうからである。
匿名的(アノニム)とは、自然的態度においてわれわれは、そのつど対象に直進的に向かい、世界のうちに素朴に生きることで自己を忘却しているため、そこにおいて常にすでに超越論的主観性が作動し機能しているにも関わらず、それが隠蔽されていること。
ところが、それらによってしかもその本質的な統一の働きによってこそ、私たちはおよそ一つの志向的対象を、しかもその都度どこの特定の対象を連続的に思念し、それをこれこれに思念されたものとして、言わ眼前に持つことになるのだ。
現象学者は、匿名的に思っている(コギテイーレント)生のうちへ、反省的な眼差しをもって露呈しつつ入り込み、多様な意識の仕方が辿る特定の綜合的な経過と自我的な態度のさらに背後に隠れている諸様態を露呈する。
これらの諸様態がさらに、「自我にとって端的に思念された存在」や「対象的なものの直感的ないし非直感的な存在」を理解できるものとしてくれる。
こうして現象学者は、例えば空間物の知覚の場合には(さしあたりここでは、意味を表す述語は捨象して、純粋に延長物(レーン・エクステンサ)に留まるか)、様々に変化する「見える物」やその他の「感覚的な物」がいかにして、この同一の延長物「の」様々な現出という性格をもつのかを研究する。
デカルトは心と物の二つを実体とし、それぞれの属性を思惟と延長とした。しかし、フッサールは延長というのは物の一つの層にすぎないと考え、第一に「時間的物」第二に「延長物」第三に「物質的物」という三つの層を考えている。
それらの物それぞれについて、その様々に変化するパースペクティブを研究し、さらに、その時間的な与え方については、それらが過去把持的に沈み込みながらまだ意識されているという変化のあり方や、自我に関わる点では、注意の様態などを研究する。
潜在的な知覚をありありと思い浮かべることによって、思われたもの(コギタートウム)の意味のうちに含まれているものや、(背面のように)単に非直感的にともに思念されただけのものを明らかにし、それによって、見えないものを見えるようにすることだということ、これである。
個々の体験に相関的な地平を解明することによって、それぞれの思われたもの(コギタートウム)がもつ対象的な意味に対して「構成的」に機能している諸体験の主題的な領域の中に、非常に多様な諸体験を加えることになる。
存立し持続する対象的な統一体のようなものが、意識の生の内在において意識されるのはどのようにしてであるか、また、この耐えることのない意識の流れの、どのような声質を保つ意識の様態において意識されることができるのか、そして特に、同一の対象の構成という驚嘆すべき機能が、それぞれの対象の範疇(カテゴリー)についてどのように生じるか、要するに、それぞれの対象の範疇に対して構成的に働く、意識の生は、同一の対象についての、相関するノエシス的およびノマエ的な変化に応じてどのように見え、またどのように見えなけれまならないのか。
範疇とは、意味範疇と対象範疇を含め、をふくめ形式的本質が一般的に『範疇』と呼ばれる。
現象学的分析と現象学的記述の方法論とは、意識と対象、思念と意味、実在的な現実と理念的な現実、可能性、必然性、仮象、真理さらには「起源」の真の問題として引受けられるべきところではいつでも働くことになる。
意識の体験が固定した概念的な規定可能性という理想にかなうような究極的な要素や関係をもたず、それゆえ、固定した概念のもとで近似的に規定するという課題を立てるのがまだ理にかなっていると思われるのは、私たちがそのような対象について不完全な認識能力しか持たないからという理由ばかりではなく、そもそもアプリオリな理由によってなのだ。
第二十一節
形式としてすべての特殊なものを包括している、もっとも普遍的な類型は〈我ー思うー思われたもの〉である。
この類型とその記述の特殊な形態においては、容易に理解される理由からして、思われたもの(コギタートウム)の項に立つ志向的対象が、思うこと(コギタチオーネス)の類型的な多様性の解明にとって、超越論的な手引の役割をはたす。
カントが『純粋理性批判』において、純粋悟性概念(カテゴリー)を体系的に見出すために伝統的論理学の判断表を「手引き」として使った用語。フッサールは形式的存在論と資料的存在論を「手引き」として超越論的な構成の理論を組み立てようとするとき、その手法はカント的な「手引き」の使い方としてもいえる。
出発点は必然的に、その都度与えられた対象だが、反省は、そこからそのつど意識の仕方へと遡り、さらに、このうちに地平的に含まれた潜在的な意識の仕方へ、それから対象が可能的な意識の生の統一において同一なものとして意識されることができるような意識の仕方へと遡る。
私たちがまだ形式的な普遍性の枠内にとどまり、およそ或る対象を内容的には拘束されず、任意に思われたもの(コギタートウム)として考え、それをこの普遍性の中で手引きと見なすならば、同一の対象について可能な意識の仕方の多様性がー形式的な全体類型としてー、一連のはっきり区別されたノエシスーノエマ的な特殊類型へと分類される。
それはさしあたり形式論理学的(形式存在論的)な分類で、それゆえ、個々のもの、究極的な個体、普遍的なもの、多、全体、事態、関係、等々のような、およそなにかであるものが持つ様態である。
ここにまた、広い意味での実在的(レアール)な対象と、範疇的(カテゴリー)な対象という、根本的な区別に分かれる。後者は、一歩一歩産出し建設する自我の活動という操作に起源を持つのに対し、前者は単に受動的な綜合という働きに起源をもっている。
他方、実在的な個体は(単なる)空間物、動物的存在、等々といった実在的な領域へと分かれるが、この実在的な個体という概念に目を向けるとき、質料存在論的な区別を見出すことになり、それがさらに形式論理学的な諸変様に対応するような区別(実在的な性質、実在的な多、実在的な関係、等々)を招き寄せることになる。
フッサールにとって、存在論とは様々な存在のアプリオリな本質についての考察であった。アプリオリな本質には、「形式的」なものと、「質料的」なものがあると考え、それぞれに対応して「形式的存在論」と「質料的存在論」を構想した。
ある任意の対象をその形式あるいは範疇において保持し、その対象の意識の仕方が変化する中で同一性を絶えず明証的に保持するとき、この意識の仕方はそれがどれほど流動的であって、究極的な要素を捉える事ができないとしても、決して任意のものではないことがわかる。
超越論的な理論は、それが手引きとなる対象的な普遍性に留まるときには、およそ或る対象についての超越論的構成の理論と呼ばれるが、それは、問題になっている形式あるいは範疇(カテゴリー)、最も上では領域の対象を扱う理論となる。
「範疇」は形式的本質であるのに対し、「領域」とは質料的な本質を指す。
こうして、知覚の理論、他の類型に属する直感の理論、表現的意味の理論、判断の理論、意志の理論、等々といった様々な超越論的な理論が、さしあたりは区別されて現れてくる。しかし、それらは統一的に繋がっており、重なり合う綜合的関連との関係を持っている。
さらにそれに続けて、構成に関わる超越論的な理論ではあるが、もはや形式的ではないような理論が現れる。
たとえば、個々の空間物と自然の普遍連関における空間物、心理物理的な存在、人間、社会の共同性、文化的対象、そして最終的にはおよそ客観的な世界ーしかも、純粋に可能な意識の世界であり、また、超越論的には純粋に超越論的な我(エゴ)のうちで意識において構成される世界であるような世界ーに関係する理論である。
客観的なものとして意識された実在的な対象と理念的な対象という類型のみが構成に関わる研究の手引きとなるわけではなく、つまり、可能な意識の様態の普遍的な類型が問われるだけでなく、あらゆる内在的な体験そのものと同様に単に主観的な対象という類型もまた、それらが内的時間意識の対象として個別的かつ普遍的にその構成を持っている限り、研究の手引きとなる。
統一的で客観的な世界を超越論的な手引きをするとき、それは、生全体の統一を貫いている綜合、客観的知覚およびその他の現れる客観的直観が持つ綜合、を遡って指示している。
世界そのものが自我論上の普遍的問題となるが、それと同様に、純粋に内在的な眼差しの方向で言えば、内在的な時間のうちにある、意識の生もまた、同じ普遍的問題となる。
第二十二節
超越論的主観性とは、志向的な体験のカオスではない。
カオスについて、フッサールは「無意味」な「感覚の束」なるものをしばしば「カオス」という語で呼んでいた。それに対抗して、「なにか意味において持つことがあらゆる意識の根本特性である」と主張すること、それが「志向性」の根本思想である。
超越的な我(エゴ)としての私にとって、考えられる対象と対象累計の全体がカオスではなく、またそれと相関的に言えば、対象の類型に対応する、無限の多様なものがもつ類型全体もまたカオスではない。これら多様なものは、そのつど可能的総合によってノエシスーノマエ的に互いに関連し合って一体を成しているからである。
体系的で包括的な秩序の統一において、可能な意識のあらゆる対象について段階的に仕上げられるべき体系と、そのうちで形式的および質料的な範疇の体系とを流動的な手引きをしながら、あらゆる現象学的研究を対応する構成に関する研究として遂行する、それゆえ厳密に体系的に相互に積み上げられ相互に結びついたものとしての遂行する、という課題である。
ここで重要なのは無限の統制的理念なのだ。
意識の対象のみに内的に固有な地平ではなく、外に向かって連関の本質形式を指示する地平を絶えず露呈することにより、それぞれ相関的に含まれた構成に関わる理論を、それぞれと結びつけるような原理を実際に与えて得てくれる。