『走り去るロマン』に賭けた夢 連載05 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第2章 高校生編 1968~71年 ②
<夜の店を転々と>
高校1年の2学期から始めた、金町のサラリーマンコンパでのアルバイトは、わずか2か月半で「店を改装するから」と一方的にクビを告げられていた。またも彼らバンドの演奏場所がなくなり、練習バンドに逆戻りする。
69年当時はまだ、首都圏ですら現在のようなライブハウスというものがなく、ジャズ喫茶(ジャズのレコードをBGMで流す純喫茶とは別物)やゴーゴーホール(ディスコティーク)など、箱バンの演奏がある業態の店が、現在で言うところの “ライブスポット” 的な場所であった。とはいえ、都心部のジャズ喫茶、ディスコはグループサウンズやニューロックで活躍しているようなバンドでなければ、出演できないステージだった。まだオリジナル曲もないコピーバンドに過ぎず、ましてや高校に通学している未成年のグループでは、地元の繁華街で演奏できる店を探すしかステージに立つ機会がない。そんな時代だった。
そして高校2年になる頃、新たに箱バンの仕事が見つかった。前の店よりはずっと近い、西川口のゴーゴーホール。ここでも週1~2日、1ステージ40分の交代制でバンド演奏を行うことになった。いわゆるディスコなので、サラリーマンコンパよりは客層は若いが、不良少年、不良少女の溜まり場になっており、ガラの悪い雰囲気の店だった。店の外で不良に絡まれているところを、店のゴーゴーガールたちに助けてもらったこともあるという。またある日、演奏前のスタンバイ中に暗い店内がいきなり明るくなり、あちこちで「キャーッ!」と悲鳴が上がった。“18歳未満入店禁止”のため、警官による未成年者補導の手入れが入ったのだ。まるでテレビドラマのようだ、と傍観するバンドメンバー4人も警官に連行されそうになる。メンバーはそれぞれが年齢を「21!」「19!」「18!」「20!」と鯖読みし、タケカワも3歳上の兄になりきって応答するが、彼らはバンド演奏者ということでお目こぼししてもらった、というエピソードもあった。
そんなゴーゴーホールで働き始めてから、2か月以上たってもギャラが支払われない。バンドの中で一番弁の立つタケカワが、店のマネージャーに問い詰める。それに対する答えが
「キミら、ウチに入る時に “演奏できるならお金はいらないです” と言ったじゃない?」だった。
タケカワも引き下がらない。理屈でグイグイ押していく。
「そうは言いましたが、そのギャラは僕たちが演奏した、労働の対価です!」
ギャラをピンハネしたマネージャーをやりこめるも、抗議し終わった後にメンバー達は気付く。
「あそこまで反論したら、俺たちクビだよな…。」
案の定、後日クビを言い渡される。夏休み前の7月のことだった。
そして迎えた夏休み。新しい夜の店を探そうと、東京を超えて千葉県まで足を伸ばす。千葉の中心街でも目ぼしい店は見つからず、埼玉に戻ろうかと思いきや、反対方向に南下して木更津駅で下車。駅の前の電柱に「バンド募集」と求人のビラが貼られていた。その住所を元に、住宅街へ向かったら円盤状の形をした建物を発見。そこはディスコティークだった。
木更津でのバンド演奏のアルバイトは、日給は1人1,000円で期間は10日間。住み込みになることをタケカワは家に連絡したが、メンバーの中には家出同然の者もいたという。ただ、このディスコは防音がイマイチだったせいか、バイトを始めてから2日目で警官が来て、騒音防止のため4日間の営業停止に遭う。営業再開はしたものの、これまた2日目で営業停止に。10日間の予定だったが、実質4日間でバンドはクビになってしまった。
埼玉に戻ってきたタケカワ達は、以前クビになった西川口のゴーゴーホールの系列店を大宮で見つける。怪しい繁華街の中にある大宮店は、西川口店と同様にガラの悪い雰囲気。それでも演奏できる場所があれば…とのメンバーの想いも空しく、1か月で閉店してしまう。
結局、演奏できる店はひとつもなくなってしまった。やはり高校生のバンドが夜の店で演奏することは難しいのか。彼らは自分たちのバンド活動の限界を感じ始めていた。地元にいても音を出せる場所もなく、県外に出たくても車の免許もないため、楽器を自由に運ぶことも叶わない。このままではバンド活動は諦めるしか…と途方に暮れる中、メンバーの一人が突飛な提案をした。
「俺たちのバンドでアメリカに行こうぜ!」
他のメンバーたちからも賛成の声が挙がった。
<アメリカを夢見るも>
彼らが「アメリカ進出」を言い出したのはこれが初めてではなかった。1回目は中学3年、ビートルズのレパートリーをコピーできるようになった頃。漠然とした海外への憧れから、タケカワが「浦和から南へ活動範囲を広げていくんだ。浦和で成功して東京へ、東京で成功して横浜へ。横浜には外国人がたくさんいるから、英語を教えてもらって、船でアメリカに渡るんだ」と夢見がちなことを言って、メンバー同士だけで盛り上がったことがあった。
2年後のこの時は中学の時と違い、メンバー各々の思惑やバンド活動の停滞が背景にあった。高校生活に感じていたつまらなさ、そして夜の店での数々の挫折を経ての「アメリカ進出」だった。一方でタケカワはもう中学の頃とは違い、冷静に状況を見つめていた。「ベトナム戦争もヤバい状況だし、行きたくない」とは内心思いながらも、盛り上がる他のメンバーを止めることもできなかった。
彼らがまず向かったのは浦和市役所、そして東京のアメリカ文化センター(ACC:全国各地に所在した、アメリカの文化・芸術を発信する機関)。「自分たちみたいな音楽を志す若者が、どうしたらアメリカに行けるか?」と問い合わせに行くも、「ヒッピー文化にかぶれた日本のアメリカ渡航志願者が多く、アメリカ側も簡単に入国を許可してくれない」こと、そして「ベトナム戦争の長期化のため、留学以外に学生の渡航は困難」とACCで返答される。
また、当時はアメリカまでの航空運賃が高く、とても高校生では支払えない金額だった。タケカワがふと「船ならまだ安いんじゃない?」とこぼすと他のメンバーは即、行動に移していく。一人が船舶会社、もう一人が旅行会社にアプローチする。
勢いあまって、最低ランクの席でアメリカ行き貨客船を予約してしまう。成り行きとはいえ、あまりにも無謀だった。形としては “アメリカへの家出” も同然。しかも他のメンバーは高校を自主退学する者や、旅費を稼ぐために職業安定所へ行く者もいた。こうなるともう収拾がつかない状態だった。タケカワの意思に反して、他メンバーとのギャップが大きくなっていった。
貨客船の予約の期限を延ばせるだけ延ばしたが、結局キャンセルすることになる。最終的には実際問題として、「メンバー全員でアメリカに行けるか、行けないか」を各メンバーの意思に委ねたようだ。タケカワは「自分も、家族も反対」のスタンスを示した。
このまま突き進んでも、メンバー全員が異国で路頭に迷うのは明白。そう想像できるだけの冷静さを欠いた計画は無謀としか言いようがなかった。バンドにとって起死回生となるはずだったアメリカ行きも、土壇場になってからのひとりの反対で、完全に道は閉ざされてしまった。
<ビートルズより先に解散>
1969年9月、約4年間続けたバンドは解散した。
もともとは遊び友だち同士で始めたバンド。それが最終的にはバンド活動のせいで別れてしまった経験は、今でも辛い思い出だという。現在ではライブやメディア出演時のトークの定番ネタとして、「中学から高校の頃に組んでいたビートルズのコピーバンドは、なんとビートルズより先に解散したんです」と笑い話にしているが、当時のタケカワに “バンド” そのものに対するトラウマが生まれたのは事実だった。大学時代に自主コンサートを開催するたびに、公演のためだけのバンドを組んでは解散を繰り返し、プロミュージシャンから誘いがあっても「バンドを組むつもりはないんで」と無下に断ってしまう。レコードデビュー直後のコンサートツアーでミッキー吉野グループと組んだが、その時点ではミッキー側もタケカワをバンドに加入させるプランがまだなかったのもあるが、それはタケカワも同様だった。それを考えれば、後の “ゴダイゴ” 結成というものがタケカワにとって一大事だったことが言えるだろう。
しかし、バンドの解散は、タケカワにとって「ビートルズのコピー」からの脱却にも繋がった。先述したように、ゴーゴーホールではビートルズナンバーの演奏が減ってきて、実質的にはアルバム『ザ・ビートルズ』(通称“ホワイト・アルバム”、日本リリースは1969年1月)以降のアルバム収録曲はほとんどコピーしていなかったという。今でこそ、「レット・イット・ビー」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」といったビートルズ末期の楽曲もライブのレパートリーとしているが、リアルタイムではカバーしていなかったそうだ。
前述した通り、その年の春から自身で英語詞の曲を書くことに熱中していた。当然のことながら、ビートルズから受けた影響は自身が曲を作る際に大きく反映されたが、それでも自作曲のオリジナル志向に拍車がかかってゆく。
<バンド解散後の “ソロ活動” 開始>
バンドの “アメリカ進出騒動” 時は高校を休んでいたタケカワ。騒動が決着してまた高校に戻ったものの、上の空状態。当時、浦高でも学生運動が起こり、学園祭が延期になったことに対してもまったくの無関心。夜の店のアルバイトで大人達とやり合ってきたタケカワは、学生運動に対しても「子供が大人に向かって駄々をこねているみたい」と冷めた目で見ていたという。放課後もやることがなくなってしまい、いったん帰宅するとすぐに出かけ、夜な夜な盛り場で演奏する日々を送っていた。
そんな状況が少し変化したのが10月。延期されていた文化祭が改めて開催されることになり、クラスの出し物として、音楽室を借りて喫茶店を企画する運びとなった。前日の店内の飾りつけでみんながテーブルクロスにイラストを描く横で、絵を描くのが苦手だからと、いつもの調子で自分の曲の歌詞と楽譜を殴り書きしたタケカワ。「これは何だ?」「歌の歌詞だよ」とクラスメイトが持って来た音楽室のギターで弾き語りする。その曲は当時出来たばかりの「YOU’RE MY BABE」だった。
「誰の曲だい?」
「僕が作った曲だよ」
「本当かよ!すごいな!」
クラスメイトが口々に褒め、「もったいないよ。絶対売り出すべきだよ」と歓声が起きた。
コピーバンド時代を振り返れば、中学ではクラスメイトや教師たちに内緒で練習、高校に入学以降も他校に在籍しているメンバーと一緒に練習したり夜の店で演奏したりと、クラスメイトの前で演奏する機会はなかった。音楽活動をカミングアウトした反動で、タケカワはクラスメイトたちの衆目を集めることとなる。なぜか同級生たちがタケカワのマネージャーを買って出て、その数はなんと8人になったという。
※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
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