『走り去るロマン』に賭けた夢 連載08 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第3章 大学1年生編 1971~73年 ①
<初めてのホールコンサートを共催>
横浜国大へ入学する前月の1971年3月。古い友人からタケカワに電話が来る。彼は白幡中学時代の同級生で、桐朋学園大学の演劇科に進学することが決定していた。お互いの近況を話しているうちに、その友人から相談を持ち掛けられる。なんでも、武蔵野音楽大学の学生だった彼の姉が、つい先日の卒業演奏会でベートーベンのピアノソナタ第23番「熱情(アパショナータ)」を第一楽章しか弾かせてもらえず、全楽章を披露する機会が欲しいという。さらに、役者志望のその友人も一人芝居を発表する場が欲しくなって、姉弟ふたりでコンサートを開こう、と地元の浦和市にある埼玉会館の小ホールを4月に予約してしまった、とのこと。しかし、ふたりだけの出演ではホールを埋めるだけの集客は心許ない。タケカワへの相談は「他に面白い出し物はないか? 誰かいないか?」というものだった。
友人の一人芝居、友人姉のピアノリサイタル、それなら自分もひとりでギター弾き語りのリサイタルを演りたい。そして「タイトルに “タケ” を入れてくれ」と友人に頼んだ結果、3人のコンサートのタイトルは『ピアノと演劇とタケの夕べ』となった。タケカワは当日の演奏曲として10曲ほどを作曲。コンサートのラスト曲には3部構成の組曲を作り、ピアノを弾く友人姉のために細かな伴奏用の譜面を書き、その英語詞を日本語にして友人が朗読するという、3人のコラボレーションを実現させた。
なお、友人姉弟が当初心配していた集客は杞憂に終わり、告知から2か月位しかなかったにもかかわらず500人の満員(当時の小ホールの公称収容人数は504人)。タケカワは「3人とも顔が広かっただけ」と語るが、友人たちの協力を借りながら大量のチケットを捌くというこの成功体験が、後々のコンサートの自主開催に繋がってゆくことになる。そしてこのような自主コンサートが彼にとっての「新曲発表会」となってゆく。
<初ワンマン『TRECNOC』>
4月の『ピアノと演劇とタケの夕べ』から半年後、9月には初めての単独でのコンサートを自主開催する。会場はこの年の2月に開館したばかりの浦和市民会館(後のさいたま市民会館うらわ、現在は閉館)。コンサートのタイトルは『TRECNOC(トレクノック)』。これは英語の "CONCERT" のスペルを逆に綴ったもの。友人が作製してくれた、公演チケットの表には "CONCERT" と、そして裏面に "TRECNOC" と印刷されていたのがネーミングの由来だった。公称収容人数500人に対し、結果的に満員にはならなかったものの、友人たちのネットワークを通じて350人を動員することが出来た。
今度は4月の時とは異なり、会場の手配からコンサートに至るまでの一切を自身で執り行うことになる。チケット販売、リハーサル場所の確保、PAの手配、そして当日演奏する新曲の制作。タケカワはこのワンマン公演のために新たに組曲を二つ作ったという。
その他にも、後にデビューアルバムに収録される「HAZY NUN」の原曲もギターの弾き語りで披露している。公演中、同曲のMCで歌詞の世界を説明しようとして
「ほら、あの辺にいきなり尼さんが現れたら…」
と会場の後方を指差し、観客が一斉にその方向を向いたら、
「いるわけないでしょう」
と続け、観客の爆笑を誘ったという。タケカワも爆笑されるとは予想外だったらしく、自身の感情を落ち着かせようと、
「ちょっと気持ちを落ち着けましょう。黙祷!」
と叫び、さらにウケを取った結果、なかなか歌いだせなかったというエピソードが残っている。
コンサートは時間に余裕があったため、ゆっくりと曲を展開して、歌も上手く歌えたという実感を得た。だが、楽曲や歌そのものよりMCの面白さが評判になってしまったのがタケカワには不服だったらしく、その後のコンサート以降は曲間のMCをほとんど喋らなくなったそうだ。
<坂本龍一との意外な交流>
9月の『TRECNOC』コンサートに来た観客のひとりに、東京藝術大学の学生だった頃の坂本龍一がいたという。タケカワが横浜国大のクラスメイトに、来春に藝大の再受験を考えていると話したところ、「自分の高校の親友で、藝大の作曲科に行っているのがいるから、会ってみたらどうだ」と紹介される。タケカワと坂本は共に1952年生まれだが、坂本は早生まれのため当時すでに藝大の2年生だった。
坂本はクラスメイトに誘われて、一緒に『TRECNOC』へ行ったらしく、タケカワとの初対面時は藝大の話よりもっぱらコンサートの話題に終始した。坂本は「ジョージ・ハリスンみたいな曲を書くんだね」と褒めてくれたとタケカワは述懐する。
その1年ぐらい後に、タケカワは坂本のバンドにサポート参加をしたことがあるという。坂本が藝大作曲科の同級生とビートルズのバンドを組んで文化祭で演奏する事になっていたものの、ジョン・レノンのパートをする人間がいないので、一緒にやってくれないか?との依頼を引き受ける。ジョンのパートなのでギターを弾き、坂本はピアノを弾いていたという。その時はわずか5~6人ぐらいしか聴衆がいなかったが、それが二人のたった一度の共演となった。
お互いがプロデビュー以降、ゴダイゴとイエロー・マジック・オーケストラとは特に接点もなく、その横浜国大時代のクラスメイトの結婚式で顔を合わせたぐらいだった。その席で司会者が「この結婚式場には、ゴダイゴとYMOがいて、まるでベストテンのスタジオのようだ」と言って、式を盛り上げたそうだ。
<再び受験生生活へ>
横浜国大に通学していたものの、自宅のある浦和からの移動距離・時間もさることながら、経営学部とは肌が合わず、タケカワ自身はあくまで “仮面浪人” との意識があった。横浜に下宿しないで、わざわざ浦和から通学したのは、下宿では自室にピアノを置くのが難しいという理由もあった。同時に「英語を本格的に勉強したい」という気持ちが強くなり、11月に横浜国大を前期で退学して受験生生活に戻ることになる。
横浜国大に入学してからも、東京藝術大学への再受験に備えてクラシックピアノや和声学の勉強は続けていたが、これを機にきっぱりと諦めて、外国語系の学部志望で英語を中心とした受験勉強に専念する。これはポップス曲の作曲に自信ができたため、「藝大という言葉のライセンスはもういらない。だったら英語のライセンスを取ろう」という想いがあったという。自宅からほとんど外に出ずに受験勉強をする、いわゆる“宅浪”のために、横浜国大を退学してから翌72年春までの半年弱は音楽活動を完全に休止していた。
高校時代の英語の成績は5段階評価の「3」と「4」の間だったというタケカワ。英語対策のために長文読解を重点的に行った。長文に出てきた分からない単語をすべて書き出して単語帳を作り、その単語を覚えたら元の長文問題に戻る…の繰り返し。最終的には1,000題の長文を解き、一橋学院(予備校)の模擬試験では英語で3,000人中18番の成績を収めるまでになったという。併せて、数学はひたすら問題集を解き、歴史は年表を覚え込んだ。この二度目の受験は精神的にもかなりキツかった、とタケカワは述懐している。
翌72年春の受験結果は、前年も受験した上智大学外国語学部英語学科、そして文学部英文学科の二つに不合格。英文学科の不合格通知が来た時は焦りで追い詰められてしまい、寝込んでしまったものの、文学部史学科に合格を果たした。続いて早稲田大学の第一文学部に合格。私立大の受験の方が早く、しかも国立大の合否発表より前に授業料の納入期限が設定されていたため、それぞれの前期分の授業料(それぞれ約10万円)を納入していた後に、まったく自信のなかった東京外国語大学の外国語学部英米語学科に合格したことが判明する。国立大の方が私立大より授業料も安いため、こちらも授業料を納入。本来なら本命の大学1校に入学するものだが、「授業料半期分を納入してしまったから、半期だけでも通学しなければ損」とばかりに3校に入学。外大と早大、上智の3枚の学生証を携帯して半年間在籍することとなる。
なお、タケカワが横浜国大に入学した71年度までは、国立大学の授業料は年間12,000円だったが、72年度からは従来の3倍、年間36,000円に引き上げられている。そのため東京外大への入学の時点で新授業料が適用されている。タケカワが東京外大を11年間かけて卒業したのは有名な話だが、最終在学年度となった82年度の授業料も、休学と留年を繰り返したため入学当初の年間36,000円に据え置かれていた。
<大学生活と音楽活動をリスタート>
72年4月。再受験の間は休止していた音楽活動も、大学再入学を機に再開する。「大学で本格的に英語を学び、英語詞に活かす」という目的はあるものの、再受験期間の鬱憤を晴らすかのように、音楽活動に邁進してゆく。当面の目標は前年9月に続く、ワンマンコンサートの第2回目の開催だ。ワンマンコンサートのチケットを3校で売り、その上がりで余計に支払ってしまった2校分の学費をまかなう予定だった。
そして、タケカワにはこの時点でひとつ心に決めていたことがあった。「大学時代の間に、レコードデビューできなければ、音楽の道は諦めよう」と。不退転の決意のようではあったが、その反面で入学早々、東京外大の教務課に赴き、こんな相談をしている。
入学時にもらった学則には、「在籍年数は8年。前期4年、後期4年、そして休学期間が3年あり、それは在籍年数に含まない」と書かれていた。結果的にデビューは3年後に叶えられたが、大学の在籍規則は最大限まで活用することになる。
<東京大外と英語>
東京外大への合格は「奇跡」とし、その理由は「自己採点で満点だった数学のおかげ」と言うタケカワ。二度目の受験勉強では英語対策を徹底的に行ったものの、大学の同級生はみんな英語では高校で一番、もしくは県内で一番の成績だったという優等生揃いだったという。
当時の東京外大の英文学教授、河野一郎は後年、受講生だったタケカワについてこう語っている。
もっとも、この年の同大の文化祭「外大祭」でライブ演奏していたタケカワを観て、後日の講義中に「武川君は英文法はダメだけど、英語の歌は上手いね!」と言い放ったエピソードが残っている。
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