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三島由紀夫『煙草』(再)

新潮文庫『真夏の死』7-27p. 収録
初出・昭和21年6月『人間』

高温多湿なエキゾチズムのようなのを、三島由紀夫の作品を読んでいると時折感じます。なにより暁の寺のタイの章で感じますが、この短編でも強く感じます。どこか南の国、その雨季の、いやらしいジメジメ、鬱陶しいジメジメです。そのジメジメは土の中の芋虫を太らせキノコをふやし人を倦ませます。そんな空気感を端的に言い換えたのが、「たばこ🚬」であると思います。

「わたしはそれを吸った。さっきの沼の匂いに似たそれと香わしい火の匂いとがまざり合い一瞬大きな燃えている熱帯樹の幻を見た。」

この文がそれを直接言っています。
怠惰な、遊び疲れた、黄金の飾りのある熱帯雨林のそばの宮殿の奥、そこに寝っ転がる裸婦のようなイメージでしょう。この島国の片隅でそのイメージを現出させるのが、紫煙をもくもくと発するだけのあの健康に悪い嗜好品だなんて、巧みな飛躍ではありませんか。

「出帆」というのは、三島が最後までとらわれ、ついに我々から見えるところに答えを書いてくれなかったひとつの問いであると思います。
天人五衰のラストは本来「感電死する技師を見て解脱する」予定だったそうですが、この解脱という言葉、そして『煙草』の中の「出帆」は似た中身を持ってます。それに『金閣寺』第8章ラストではもっと率直に「出帆」について触れています。今いる地点を離れること、今の自分を越えようと試みること。根っからストイックで、構築的な考え方をする三島には「出帆」が、馬とニンジンのあれにおける人参のような、追い続けているのに距離を詰めることのできない目標だったのでしょう。それがストイシズムの性質なんだと思います。

さて私はラストにとってつけたように描かれる「火事」について、その火が何かの萌芽と何かの消失を一挙に表してるんじゃないかと以前がんばって言ってみましたが、大事なことを忘れていました。火の発生源はきっと「煙草」ですね。失火と考えるのが適当だとやっとわかりました。

上述のイメージは単に「綺麗」では済まない何事かを孕んでいます。それは熱帯の高温多湿な環境における腐敗に似ています。辺縁をジワジワ破壊してく火は、腐敗の友達、せっかちな親友です。たばこにはそういった頽落がもとから備わっているのです。もしかしたら、大切な用途として。

まだよくまとまっていないのですが、「煙草」がもつ性質と家屋の木材とはとても相性の良いものなんじゃないかと思います。石と植物でできた家というものは、いわば死体の占める空間、生命を招くことのできる死の空白ではないかと思うのです。煙草はその熱帯を呼ぶ性質、夥しい生命感をもたらす性質によってものを燃やすんだ、なんて考えです。酸化をそんなふうに非科学的に考えてみませんか。ほら、水気を奪うじゃないですか。

あと一点、大事だと思うのは、主人公が遠くの火事を窓から見た後、なんとなく眠くなって窓を閉めて寝ちゃうことです。短編だから短めに説明しようという目論見があるのでしょうか?私はここになにか意味があって、さらにその意味が三島の奥深くを知る手がかりとしてめっちゃ有効なんじゃないかという予感がしてなりません。

対岸の火事、とその言葉通りかもしれませんが、真逆のことも言えるんじゃないかと思います。面識のない「性格的な同族」は、滅びようと永らえようとどうでもいい、そんな感覚、感じたことはありませんか?自意識の不思議な性質のひとつなんじゃないかと思うんですが、まだよくわかりません。

書いていて笑える文章ですが、三島は反三島的性格を抱えながら生きたと思います。人間と言い換えてもいいかもしれません。その場合私もあなたもそうでしょう。
ひとりの小説家のいくつかの作品をじっくり読むことは、人間のサンプルを舐め回すことだと思います。人間が不可解すぎるのが悪いのです。そしてソフビや3DSのカセットが苦いように、人間も苦味を纏っていると思います。でもその苦味に最近ハマってきてしまっています。コーヒーを砂糖なしで飲めるようになれば砂糖ありの方が不味く感じます。たぶんそんな感じです。

そして、おしゃれにまとめたかったのに全くおしゃれになりませんでしたが、きっと煙草もそういう苦さを持ってるんでしょう。

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