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三島由紀夫と緑色の蛇

ヘンリー・スコット・ストークスによる「三島由紀夫 生と死」に、三島が晩年「緑色の蛇」という言葉をよく口にし、それにうなされていると嘆いていた時期があったと書いてあります。この部分について、マルグリット・ユルスナール「三島あるいは空虚のビジョン」にくわしく載ってあるというので大学図書館で調べてみたのですが、大したことは書いてありませんでした。アダムとイブの話から繋がる西洋的なヘビの悪魔的印象・邪神的印象にサラリと触れるだけでした。今回はこの「緑色の蛇」とは何か、私がしばらく考えていたことを晒します。

1️⃣蛇
「虫愛づる姫君」の評で蛇と男根をつなげて考えたものがありますが、蛇を考えるに際してまず指摘すべきはそれでしょう。男性性の象徴、女性器にくらべてどこか狡猾な印象のある生命力のシンボルじゃないでしょうか。アスクレピオスの杖にみられる螺旋状に巻き付く蛇は、生命力はもちろんのこと永遠性や神秘性も示しています。まさに藪から棒、唐突に現れて噛みついてくる蛇は恐ろしく、恐ろしいが故に崇高な感じもします。またクレオパトラの自殺のように、蛇はヴェノムを持っていて、ときに人を一噛みで殺してしまいます。
また蛇は脱皮して新しくなるように見えることから不死ゆ復活、永遠性の強い象徴でもあります。そんなおそろしくて気高い蛇は、人にとって恐るべきものでもあり崇めるべきものでもあり、とにかく人間とは違った姿形をした不気味な他者、混じり合えない遠くの存在だと思います。

『豊饒の海』の単行本の表紙にはゾウやキジとともに白い蛇が描かれています。またその裏面には龍が描かれており、「海千山千の蛇は龍になる」という日本の言い伝えを想起させます。日本ではうわばみとよく呼ばれる大蛇の伝説が各地にあり、その多くは洪水等の水害と関係した伝承です。河を蛇や龍に見立てる文化は東アジアに広くみられます。

2️⃣緑色
緑色は肉の腐敗の色であり、植物の色であり、人間の目に最も鮮やかに明るく見える色です。ひろく生命力の象徴ととらえられますが、異族の色、魔法的な色とも捉えられ、またドル札のインク色でもあるので嫉妬や憎悪の色でもあります。スリザリンは緑色ですね。
また薄い緑であれば若々しさや軽薄を、濃い緑であれば永遠性、隠匿の力などを思わせます。

3️⃣緑色の蛇
さて、緑色の蛇とは何の象徴でしょうか?
死の直前期の三島を捉えた緑色の蛇の幻影の正体は???   以下、自説です。

①山脈、日本列島説
彼のアンビバレントな美学として、「天使的純粋性・ロマンス・兄妹愛・窃視対象となる不可触の空間」と「古典的な暗闇・純日本的なままならなさ・同性愛」があげられます。どちらも「毒としてはたらく純粋」という三島の観念に裏打ちされていますが、この後者の観念が肥大化したものとして緑色の蛇が現出したのではないでしょうか。日本列島を貫く山々、そのあまりにも大きな不可解が心の中で一匹の蛇として凝縮され、こちらの首に巻きついて窒息しさせようと禍々しい移動を始めている様子が三島には見えていたのではないでしょうか。

②お濠(ほり)説
後楽園から飯田橋へ歩けば緑色の蛇が見えます。『天人五衰』でよく後楽園が出てきますので、綿密な取材で知られる三島も当然その様子をみたことと思います。お濠は天皇のおうちを守護するように東京のどまんなかに横たわる巨大な緑色の蛇です。死の直前期の数年になって急激に右翼的な思想に傾いた三島にとって、この蛇、つまりは江戸城のとしての設備が彼の心を捕まえて離さなかった、と言うことができます。みずから盾となることは、その緑色の蛇と合一することであり、自意識の強い三島にとってその近くでなんらかの重い葛藤があったと考えられます。また彼は正田美智子さん(現在の上皇后さま)とのお見合いがあったとされており、天皇や天皇家にたいして普通とは違った視点を持っていたことは確かです。またストークスがわずかに触れている点ですが、昭和四十年代の三島は、畏れ多いことに、天皇と自身とを同一視していたのではないかとも考えられます。彼の自己愛性パーソナリティ障害の重い症状の一つとも取れますが、一考する価値があります。

③言の葉の有機的体系
ややポエム気味ですが、言葉が、彼が45年間のうちに紡いだ膨大な言葉が自分の首を絞める、というのは適当な考えだと一蹴できないリアリティがあると思います。また蛇のしっぽから彼の人生が始まったとして、最後にはチロリと覗く真っ赤な舌がある、というのは彼の構築的な一貫した人生とよく似ています。彼の人生もまた鮮血の一点に終わりました。自分が「青い森」であると思って歩き続けていた緑色の場所が実は一匹の蛇の背だった、なんて三島的じゃないですか? クサ過ぎる物言いだと自分でも思いますが、、、

④なんの象徴でもないけど、「天使殺しの蛇」
満二十歳で死ぬ、そのとき死ねば自分が天才だと証明されるという不思議な思念を、少年期の三島はラディゲに傾倒しながら心中に携えていた。そして彼は死なず、二十歳は戦争とともに終わり、夏の日の静寂がそれ以降の彼を規定・束縛した。少年期の彼が夢見たのは、木陰で本を読む色白の少年が、目を離したうちに枝から首を差し伸べて降りてきた蛇に噛まれて死ぬ、そんな小さな英雄のような死ではなかったか。彼はそれをどれほど望んでいたのか?
四十五歳にちかく近くなって、そんな夢想がふたたび彼をとらえ、蛇はより一層狡猾ないやらしい印象とともに鮮明になったのではなかろうか。

彼にとってそれは喜ばしいことでもあり、嫌なことでもあったのではないかと私は思います。彼が最後の日に自宅に書き置いた文、「限りある命ならば永遠に生きたい」という文と、上記の死への強烈な憧れとは彼の中でどんなマーブル模様を描いていたのでしょうか。

😕



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