肌の色についてわたしが考えたこと
こんばんは、たまこです。今日はわたしにとってずっとコンプレックスだった「肌の色」について書いてみたいと思います。
色黒の肌がコンプレックス
わたしはずっと自分の色黒な肌が嫌いでした。小学校に入る前からすでにそのコンプレックスは生まれていたと記憶しています。家族や親戚から「色黒だね!」と言われることがすごくすごく嫌でした。
幼稚園で撮った写真を見て、他の子との肌色の違いにショックを受けていました。それでも、光の反射などによって色白に映る写真もたまにあるので、それを期待して見ずにはいられなかった。
工作で色塗りをするときも「はだいろ」という色を気にしていました。「はだいろ」を握る自分の手の茶色さに傷つきながら、自分の顔を茶色で塗ることはありませんでした。
ランドセルを買うとき、母に「茶色がおしゃれでかわいいんじゃない?」と、茶色のランドセルを勧められました。わたしは茶色は、茶色だけは絶対に嫌で別の色がいいと言いはりました(いまは、茶色のランドセルってすごくおしゃれだと思っています)。黄色の服も絶対に着ませんでした。黄色を着ると茶色が目立つと思っていたのです。また、黄色と茶色でひまわりみたいに「似合ってしまう」のが嫌でした。
引っ込み思案の道へ
小学校に上がると、そのコンプレックスはさらに膨らみました。小規模だった幼稚園の同級生のほかに、3つくらいの園から入学してきます。人クラスは30人に。お互い知らない中で、意地悪な子にも出会います。露骨にわたしに意地悪にするくせに、他の女の子には優しい男の子とか。しかし、今考えると、それが「色黒だから」かどうかは分かりません。なぜなら、自分自信が色黒ということを気にしすぎて「きっと受け入れてもらえない」「傷つけられるに決まっている」と引っ込み思案になっていたからです。そんな自分が周りの子とうまくコミュニケーションを取れていたとは思えません。
年中日焼け止め
中学受験を経て、知り合いの一人もいない中学校に入学しました。ここからわたしの年中日焼け止め生活が始まります。スマートフォンを買ってもらったのです。ネットで「色白になるには」と検索して、中学生のわたしが一番やりやすい方法でした。朝、日焼け止めクリームを塗る。顔は二度塗り。お昼休みには密かにポケットに入れておいた日焼け止めクリームを、誰にも気づかれないよう個室で塗りたくりました。そして部活が終わって変える前にも。中学2年生になってからは、日傘を使い始めました。色黒なわたしがフリルの白い日傘なんて考えられなかったので、男物の真っ黒な日傘を差しました。その年の冬。「たまこちゃんて色白だね」とクラスの子に言われました。家族にも「白くなったね」と言われました。ひそかに続けてきた努力が実ったのです。コンプレックスが完全になくなったわけではないけれど、すごくうれしかった。
コンプレックスについて根本的に考える
高校に入ってからできた友達はテニス部で、よく日に焼けていました。「白くなりたい」と時折会話に出てきました。ある日、一緒に下校しているときのこと。夏に近づいて日差しが強く厳しくなってきて、わたしたちはしきりに「あつーい」と言い合っていました。
わたしが
「〇〇ちゃん、日傘差さないの?涼しいよ」
というと、〇〇ちゃんは
「…なんかさ、わたしめっちゃ日焼けしてんのに日傘とかおかしくない?」
と言いました。わたしの「白いフリルの日傘は差せない」という気持ちと同じだと気づきました。おかしくないと思うけどな、と言いましたが、さらに〇〇ちゃんは「ほらー、見て!」とわたしの腕と比べるように、腕を見せてきました。その瞬間、とても胸が痛みました。その友達が色黒にコンプレックスを持っているのだと分かっていながら、その子より白い腕は並べられなかった。色の違いは明らかなので「そんなことないよ!」ともいえないし、「色黒でもいいじゃん!」と開き直ったって傷つけるだけ(自分自身、傷ついた経験がありました)。こんなときにうまく対応する処世術は持っていませんでした。気まずい沈黙が生まれてしまいました。
その沈黙さえもあの子を傷つけてしまったと反省しました。そのことが1日中頭から離れませんでした。これが、わたしが肌の色のコンプレックスについて根本的に考えるきっかけとなりました。
なぜ色黒が嫌なのか?
もう二度と傷つけたくないと強く思いました。そのために、私自身が肌の色のコンプレックスについてしっかりと考えることにしました。
まず、かねてから自分に対して疑問に思っていたこと。「色白になりたいという自分の気持ちは黒人差別になるか?」。少し前、白人の警察官によって黒人が殺害されたことがニュースで報じられていましたし、黒人差別は歴史の授業でも習いました。プラン・インターナショナルのHPでは、差別が生まれる原因について次のように述べられています。
これを読んで、わたしは黒人を差別したいと思っているわけではないと考えました。なぜなら、わたしは自分自身の肌の色に嫌悪感を抱いているだけであり、他人がそうでなければいけない、とか、他人の肌の色に対して嫌だとかは思っていないからです。そのことに気づくと、わたしは不思議と自分のことが少し好きになりました。これはとても大きな発見でした。
つぎに、「わたしはなぜ自分の肌の色が嫌いなのか?」を考えました。周りの人に言われ続けたからだろうか、などいろいろ考えてみたものの、結局のところ「なりたい自分像」が、わたしにとっては「肌の色が白い自分」だったのだというのがしっくりきました。
「なりたい自分像」は人によって違うのだと思います。前述の「差別が生まれる原因」のように、「なりたい自分像」が世界を見るときの固定観念になってしまって、嫌悪感、あるいは憧憬をもつことで差別は生まれてしまう。
自分のコンプレックスと他人のコンプレックス
わたしは、友達のことを「色黒で醜い」なんて1ミリも思っていなかった、本当に。他人の見た目について感想をもつことがおかしいのだと気づきました。ただ、見た目のコンプレックスを打ち明けられたとき、どのように返答すればよいか、答えはまだ見つかっていません。しかし、自分がコンプレックスをもつこと自体を認めることができた今、「なりたい自分像」と世界とを分別することを覚えた今、その子にもう少し寄り添える気がしています。