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白鷺とチャーハン 第1話

<幼稚園生 あやね>
あの日あたしは、すっごく怒っていた。
お母さんは朝からずっと「早く早く」しか言わないし、「もう自転車でも
大丈夫そうだから、お兄ちゃんの靴下買いに行くよ!お兄ちゃんが学校から帰ってくる前に戻ってこないといけないから!」と私のじゃまをした。


昨日までごうごう言っていた、こわい風の音がしなくなって、楽しく
お絵かきしてたのに。こんな時「家にいたい」なんて言ってもお母さんは
ぜったい聞いてくれない。どうしても出かけなくちゃいけないなら青いのがよかったのに「似合ってる、これもすごく似合ってるって」と無理やり
ピンク色のセーターを着せられて、自転車の後ろの椅子に乗せられた。
おひさまはすごくあったかいけど、自転車をビュンビュン飛ばすお母さんが時々何か話しかけてきても、全然聞こえないふりをして、
そっぽを向いてたんだ。

靴下を買いに行くなら、あのスーパーを通るはずだから、そこでチョコの
おやつでも買ってもらおうとこっそり考えていたら、お母さんが
「キキキキーーーッ」と急ブレーキをかけた。
「もうっ!こわいからやめてよ!」そう言おうとしたら、お母さんは
私を乗せたままの自転車をガッチャンと止めて「大丈夫?」と
誰かのところに走って行ってしまった。


<製薬会社 社員 営業 英将>
あの日私は、朝から先輩のニヤニヤ笑いにさらされていた。
そりゃあ、要領のいい口のうまい先輩と比べたら、外回りは私の手に
余る。入社後3年も経とうとしているのに、未だに営業の成績は安定
しない。去年入ったばかりの後輩社員にすら「ロールモデルとしてあれは
ないわ」と噂されているのを知っている。

前日までの台風が去ったことで、街は随分穏やかさを取り戻していた。
「外回り行ってきます」と行って社外に出た私は、太陽のじんわりとした
温度をグレーのスーツの背中に吸収しながら、川沿いをとぼとぼと歩いて
いた。右側のポケットには、昨日駅前でもらったキャバクラのポケット
テッシュが入ったままになっていた。


<専業主婦 泰子>
あの日私たちは、家から歩いて20分ほどのところに最近できたという、
お蕎麦屋さんに行くところだった。昨日までの台風が嘘みたいに晴れて、
近くの川は水かさを増し、ごうごうと流れていた。普段は淀んだ流れで、
下水くさいようなこの川も、水量が増えて速く流れていると、清々しくて
なかなか悪くない。主人は、「そこの蕎麦屋は、どうやらかき揚げが有名
らしいよ。まあ、ひとつお手並み拝見といくか」とさっきから3度目になる
セリフを言いながら、川には目もくれずに歩いている。

大柄の彼はいつだって、歩くペースを調整するとか、私が自分の話に興味があるか、などということにはお構いなしだ。連れ添って今年で42年、店を
やって忙しくしていた頃には気にしないようにしてきたあれやこれが、
最近妙に目につくようになってきた。


<引退した料理人 義生>
あの日私はいつものように私の話に全く興味がなさそうに、静かについて
くるだけの泰子と大通りを南に向かって歩いていた。4年前に小さな和食の店をたたんでから、ネットで見つけて気になる店があると女房を連れて
食べに行くことにしていた。店をやっている時は、休みなんてほとんど
取れなかったから、私なりの「おわびのお誘い」のつもりなのだが、
出かけようが何しようが、家にいるときと同じ、たった二人の顔ぶれ
なのだから、余り代わり映えしないという気持ちも何となくわかる。

でも包丁を握っていた左手が、これまでのようには動かなくなって
しまった。これまでとは違う、それが本当の意味でわかるのは自分だけだ。後を託せる子供もいない。弟子も取らなかった。泰子と2人のアルバイト
とで何とか切り盛りしてきた店は、諦めるしか仕方がなかったんだ。


<経済学部大学2年生 競技自転車サークル 慶太>
あの日俺のスマホには、朝の7時に先輩からラインが入っていた。
来週からの合宿に必要な備品がどうしても足りないというしょうもない
連絡だ。一度眠ったら、俺は講義のあるぎりぎりまで起きない。部室でも、
飲み会でも、ことあるごとにその話はしていたはずなんだが、まあそんな
こと先輩は覚えちゃいないんだろう。

それでも健気な後輩は、2限からの講義の前に、でかい駅のそばにある
サイクルショップにひとっ走り行って、先輩の「ご心配」をなるべく早めに解消しようと思っていた。

でも慣れないことはやっぱりするもんじゃない。いつもより1時間も早く
セットしたアラームはもちろん知らない間に切っていたし、当然のように
もう一度眠りに戻っていたのだった。「やっべ!」今日は2コマしか講義がないからいいか。寝てた時のTシャツにウィンドブレーカだけ引っ掛けて、ジーンズを履くと、俺は慌てて自転車を発進させた。


<物理学部大学院1年生 悠香>
あの日私は、明日の実験のことをずっと考えながら歩いていた。
研究室の教授は、いつものように先週から大好きな海外の学会に行って
いて、研究室はどことなく緩んでいた。相談したくても、時差があるから
教授からすぐに返信をもらうことはできない。それに、ヨーロッパ流に
ならっているらしく、海外の学会に行く時は奥さんも同伴して、各国から
来た研究者と交流を深めるべくレセプションに必ず出席する教授のことだ、何時にホテルの部屋に戻るのかさえも怪しい。

かといって、博士課程の先輩……にも相談は難しい。妙にこちらを敵視していて、話しかけないでオーラがいつも背中から排出されているのだから。
ただでさえ同性の学生が少ないのだから、ちょっとは仲良くしてくれても
いいようなものだが、そういうものではないらしい。研究室の職員の人達も、もちろん全ての学生の研究までは把握していない。

ケータイを握りしめて、やれやれ、どうしたもんかな……と思いながら、
暖かい太陽の下をとぼとぼと歩いていた。持っていたケータイが「ヴヴヴ」と鳴ったような気がして、フラップを開ける。誰からだろう……?
確認しようとした時、目の前が一瞬暗くなった。「ウゥ」ものすごい速さの重いものが体にどーんとぶつかってきて、ガリッという音が聞こえた
気がした。前歯の付け根と顎の下が妙に熱い。

自分は道路に倒れている、と理解した瞬間、自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。「うぅぅぅわ〜〜ん」腕も足も感覚はあるが、
「私は動けません。動きません」ということを知らせるために、敢えて
そのまま地面に転がったままでいた。


<宅配会社 配達員 巴哉>
あの日、僕はバンの後ろに所せましと積まれた箱の山を見て、朝からため息をついていた。ニヤリと人を小馬鹿にしたようなマークの箱があちこちから僕のことを見つめている。「がんばって運べよ、ほら早く」と言っている
かのようだ。車の運転は好きだし、何より他の人と同じ車に乗らなくて良いというのは、僕の性に合っている。家族を養うため時間を問わず働いてきたが、自分一人になれる空間がある、というのは心が休まる心地がするものだ。

それにつけても、最近妙に目に付くあのニヤニヤマークだ。コンビニやら
駅前の配達ボックスやらが納品指定場所になっている場合はまだいい。
個人宅に届ける場合、特に宅配ボックスが付いていないようなマンションや一軒家の場合は、大抵一度で届けられた試しがない。「確実にいる時間を
指定して注文しろよ……」とブツブツ呟きながら、車から出した荷物を何度そのまま車に戻したか数え切れないほどだ。

前日までの台風が去りスカッと晴れて、たんまりと積まれた荷物も待って
いる。でも、だからこそ僕は車を裏道に入れて、甘すぎる缶コーヒーを
飲もうと思っていた。ルートからはちょっと外れてしまうけれど、今日の
勤務時間が終わるまでに配り切れば文句はないだろう。


<美容師 なつめ>
あの日、私は久しぶりのお休みで、季節外れの台風が去った後、
ごうごうと音を立てて流れている近所の川のそばを散歩をしていた。
水量がめちゃめちゃ増えていて、水がどんどん吸い込まれていく暗渠の奥を想像しながら眺めていると、そこはかとなく恐ろしい。
と同時にその日のお昼はなんだかどうしてもチャーハンが食べたくて、
チャーハン♪チャーハン♪と言いながら歩いていた。

ふと、川の中に白くて大きな鳥が止まっているのに気づいた。白鷺かな?
実は小学生の頃、父が職場のそばの池で怪我してた〜と言って一度だけ白鷺を家に連れて帰ってきたことがある。フォルムから行くと、どうやら間違い無いみたいだ。

飛び立つ気配もないし、水流に負けじと果敢に何度も首を突っ込んで餌を
探している数羽の鴨のようなそぶりも見せない。こんな流れの速いところで、水草に足でも引っかかっているのかな?と心配になっていると、
白鷺がいるところはコンクリートで固められて、ちょっとした台のように
なっているようで、それが水草と水量の増した川で隠されていただけだったらしい。

「なんだ〜、よかったよ〜。取り残されたんじゃなくって〜」そう言って、チャーハンをどこかお店で食べようか、それとも買って帰って家でゆっくり
食べようか……と思いながら川を離れた私の耳に「ガッシャーーーーーン」という大きな音が飛び込んできた。

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