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首里城復興祭で思ったこと

火災から2年。首里城が焼失した時、さほどショックは受けませんでした。首里城は私とっては遠い存在でした。前に、数回行った程度。仕事で行ったのと、県外から義父母が来た時に案内したくらいです。

首里城が全焼した朝のことはよく覚えています。秋晴れで透き通るような青空の日でした。娘を小学校に送っていくと子どもたちが「首里城が燃えたってよ」と教えてくれました。娘によると先生も首里城のことを話していたそうです。

ニュースが大きく取り上げるのは、もちろんですが私が驚いたのは「首里城が焼失した」ことそのものではなくて、首里城が燃えてしまったことにショックを受けている人たちの姿でした。

焼けてしまった首里城を見ながら泣いている高校生、お年寄り。首里城を再建しようと募金活動する学生さん。県内はもちろん国内外からあっという間に集まった多額の募金。首里城って沖縄の象徴だったんた、と思いました。

沖縄も狭いようで広い。首里城の近くに住む人たちにとって首里城は誇らしいものでしょう。でも、首里王府から重い税(人頭税)を課せられてきた宮古、八重山の人たちからはどのように見えていたか。1992年に首里城再建されることが決まった時に、「首里城が再建されます。どう思いますか」と聞かれた八重山の人が「めでたくない。人頭税、圧政の象徴じゃないか」と話していたと聞いたことがあります。

首里城は琉球王国がなくなってから2度、焼失しています。今回の火災と、沖縄戦と。沖縄戦の時、首里城の地下には日本軍の司令部がありました。首里城近辺は沖縄戦の激戦区で、首里城は破壊されました。王家に伝わっていた王冠、文化財なども戦争の混乱の中、散在しています。首里城について書かれた文献も沖縄にはない。ないない尽くしの中、研究者や職人さんたちが国内外で必死に調査をし、試行錯誤して首里城は再建されたものでした。

2年前の火災で焼失してしまってから、数回、首里城に家族で行きました。
復興祭で琉球国王と王妃のお出まし(出御)を見て、城内を歩いていると、資源もない植民地化された小さな島国がよくこれだけのものをつくり、450年も維持したな、としみじみと思いました。歴史やいろんな人の思いが首里城には積み重なっているんだろう。再建されていくのを記録したいと思って、年間パスポートを買いました。

これから定期的に通って、写真を撮り、再建していく首里城について書きたいと思っています。私に首里城に関する知識はあまりありません。沖縄で生まれ育って、45年も沖縄に住んでいるのに、知らないことはまだたくさんある。学びつつ、書いていきたいと思っています。

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