その夜は影がほんとうに「見えるもの」になったのだ…
「恋すれは わか身は影と 成りにけり さりとて人に そはぬものゆゑ」(古今和歌集)
光によって生ずる「かげ」には、影・陰・蔭・翳などいくつかの語があります。
漢字の「影」の成り立ちは、日の光を意味する「景」と模様を意味する「彡」(部首読み:さんづくり)であり、「影」そのものにも「光」の意味が含まれています。
春の日の光や日差しを「春日影(はるひかげ)」と呼び、「月影(つきかげ)」は「月の光」または「月の光で照らし出された物の姿」を意味し、「星影(ほしかげ)」も「星の光」を表します。
光の当たらない所や見えない隠れた部分を表す「陰」や草木のかげを含む「蔭」、手や物などで覆いかげにする「翳」、同じ「かげ」と読む同訓異字ですが微妙に意味が異なります。
水面に映る月や人や草花の姿を「水影(みずかげ)」で景物を表し、記憶によって心に思い浮かべる姿を「面影(おもかげ)」で心の内を表し、不幸や不安を抱き暗い印象を持つような表現である「影を落とす」には、第一の意味として「光をなげかける。光がさしている。」があがっています。
時には、恋しい人のことを思い痩せ細ってしまった姿の形容に「影」が使われ、その思いが叶わぬ心苦しさが伝わってきます。
「日蔭は日表との対照で闇のようになってしまう。なんという雑多な溷濁だろう。そしてすべてそうしたことが日の当った風景を作りあげているのである。そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の偽瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。おそらく世間における幸福がそれらを条件としているように。」(梶井基次郎「冬の蠅」より)
「かげ」は光に照らされ、その背後にできる「闇」の部分を意味する言葉でもあります。
「日陰(日蔭)」と言えば「物のかげになり日光の当たらない場所」ですが、「日影」と言えば「日の光。日光。日差し。」を意味します。
さらに、「陰」と「影」が合わさる「陰影(陰翳)」には、日光の当たらない暗いところが転じ「物事の調子や感情などに微妙な変化があって趣が深いこと」を意味し、「陰影に富んだ描写」などと表現されます。
「夏はよる。月の頃はさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。」(清少納言「枕草子」より)
太陽に対して月のことを「太陰」と呼び、月の満ち欠けの周期を基にした暦が「太陰暦」でした。
月が出ていない、または月がまだ昇らない夜のことも「闇」と言います。
「陽」が極まって「陰」が生じる陰暦(旧暦:太陰太陽暦)4月は「陰月(いんげつ)」とも称する初夏の頃であり、陽暦(新暦)だと4月下旬から6月上旬に当たります。
その初夏の闇に、夢幻泡影の如く乱舞する数多の光を「蛍影(けいえい)」と呼び、「蛍(ほたる)の光」を意味します。
「影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている――影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった!自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。『あれはどこへ歩いてゆくのだろう』と漠とした不安が自分に起りはじめた。……」(梶井基次郎「泥濘」より)
江戸時代に「影の病」や「影患い」と呼ばれ、自分自身と全く同じ姿をしたもうひとりが存在している現象であり「二重に歩む者」を意味する幻覚の一種に「ドッペルゲンガー(独語:Doppelgänger)」(自己像幻視)があります。
肉体から霊魂が分離して実体化したもので、その人物の死の前兆と信じられており、もし互いが出会うと死を招くと言われています。
「Du Doppelgänger! du bleicher Geselle! Was äffst du nach mein Liebesleid, Das mich gequält auf dieser Stelle, So manche Nacht, in alter Zeit?」(Heinrich Heine「Der Doppelgänger」)
「過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。」(萩原朔太郎「月に吠える」より)
「影」には、「死者の霊。魂。」と言う意味が込められることがあります。
人は夢を見ることで今一番会いたい人が現れたり、現実世界ではもう会うことができなくなった人や、もうひとりの自分にも出会うことがあります。夢の中で出会ったその「影」に笑みを浮かべたり涙したり、そして自分の「影」の出現には苦しみ惑わされることがあります。
「月光による自分の影を視凝めているとそのなかに生物の気配があらわれて来る。」(梶井基次郎「Kの昇天――或はKの溺死」より)
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「洞窟の比喩(The Allegory of the Cave)」において壁に映される「影」と真実の世界について語っています。
はたして、これまでに見て感じてきた世界は真実の姿だったのであろうか。
「かげ」をなくしては生きていけない。
幻影、人影、花陰、草陰、山陰、影法師などに込められる言葉としての「かげ」、人との繋がりや心に宿る「かげ」、「かげ」としての「かげ」、自分の「かげ」を見失わないために、その「かげ」に内在する「かげ」の実体にそろそろ気づいていく必要があるのかもしれません。
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