久川颯ちゃんの翼
「颯ちゃんの演技、決まってますね。とても素敵です」
と、ゆかりがテーブルの上に置かれたスマホの画面を見て言った。画面には颯が主人公を演じたドラマが映っている。中学生の女の子四人組がバンドを組んで活躍するお話で、颯はボーカルを担当し、バンドの仲間たちを引っ張り、先頭に立って道を切り開いていく立派な主人公だった。困った人を助けて、みんなと力を合わせて物語をハッピーエンドに導く、登場人物の中で一際輝く主人公。それを演じているのが颯。
「はーには演技の才能があるみたいだね〜。もっと褒めて褒めて」
と言って颯は胸を張った。画面にはクライマックスのシーンが映っている。バンドが文化祭のステージでライブをやるシーンだ。主人公たる颯の最大の見せ場だった。そのシーンで核となる颯は完璧な演技と歌唱を披露して、ライブシーンはとても美しい情景になっていた。そこを過ぎると、間もなくドラマはハッピーな結末を迎え、物語が閉じる。
「主人公を演じるって楽しいね。自分がみんなの先頭に立ってストーリーを進めるの、いい感じ。充実感があるっていうか」
颯はそう言ってスマホを手に取って、ホーム画面に戻した。颯とゆかりはプロダクション内の休憩室でドラマを見ながらおしゃべりをしていたのだった。
ゆかりが微笑しながら言った。
「私もおもしろそうな仕事をやることになりました。テレビゲームに使われる音楽をフルートで演奏することになったんです」
「えっ、ゆかりちゃんの演奏がBGMになるの? ゆかりちゃんのフルートを聴きながらゲームをプレイできるってこと?」
「ええ、そうです……それなりに予算のかかったゲームでして、楽器を演奏できるアイドルが集まって、ゲームのサウンド面を担当するというプロジェクトなんです。これは気合を入れて取り組まなければなりません」
「ゲームの音楽って大事だもんね。ジャンルはRPG?」
「いえ、シューティングゲームです。かっこいい飛行機がインベーダーと空中戦を繰り広げるシナリオのゲームです」
「うーむ、それはおもしろそうだね。弾幕がどーんと来たときにゆかりちゃんの綺麗なフルートが響き渡ったら、テンション爆上げじゃん! はーもいろんなお仕事したいな〜」
その数週間後、颯は新しい仕事が回ってきたから事務所へ来いとプロデューサーに呼び出されたので、学校帰りにプロダクションへ足を運んだ。プロダクションに到着すると、プロデューサーは会議室で話を切り出した。
「ネット上でのみ配信される短編映画に出演しないか、という話が颯に来ている。これが企画書だ」
と言ってプロデューサーはホチキスで留められた冊子を颯に渡した。颯は受け取って目を走らせる。
一読して颯は困惑した。舞台は中学校。そこに内気だが優しい女の子Aと、目立ちたがり屋でなんでも一番になりたがる横暴な女の子Bがいる。加えてひとりの物静かな男の子がいる。AとBの女の子ふたりは男の子に恋をしていて、最終的には女の子Aと男の子が結ばれる。
その途中で、横暴な女の子Bは内気な女の子Aを攻撃し、嫌がらせをして、男の子との恋をぶっ壊そうとする。自分こそが男の子の恋人に相応しいのだ、と。しかし最後は男の子と女の子Aが恋仲になり、女の子Bは物語から退場していく。
颯に依頼されたのは、女の子B役をやらないか、というものだった。悪役をやれということだ。颯は企画書を閉じてプロデューサーのほうを見た。プロデューサーは無表情で颯を眺めていた。
「Pちゃん、はー、悪役にならなきゃなんないの? 主人公じゃなくて」
「悪役に回る颯が見たいという理由でオファーが来たんだ。悪しき颯を物語の中に置きたいんだよ。悪を演じるのもいい経験になると思うけどね」
「でも他人に嫌がらせとか、したくないよ、はー」
不満げな颯の言葉を聞いて、プロデューサーは言った。
「颯、最初から最後まで敵が一匹も出てこないゲームが楽しいと思うか?」
颯は企画書に目を落とした。
「それじゃつまんないよ……敵が出てこなきゃ、ゲームにならない」
「だろ。今回の仕事も同じだ。主役と悪役がいて、それらがぶつかり合うからひとつの物語になる。主人公のがんばりに敵愾心をぶつける奴も重要な役割を持っているんだ。主人公が誰にも邪魔されず目的を達成してもおもしろくないだろう。だからこそ颯も絶対に外せないキャラクターを担当すると言える。やってみて損はなかろうよ」
颯はその言葉を聞いて完全には納得できなかったけれどもプロデューサーの言葉を聞いてやる気が出ないわけでもなかった。外せないキャラクターね。颯はプロデューサーに言った。
「わかった。この仕事、やってみる」
「了解だ」プロデューサーは頷いて話を続けた。
こうして颯は悪役を演じることにトライしていった。短編の映画ということもあって、ストーリーはシンプルだった。女の子Aの奮闘を女の子Bがことあるごとに妨害していくが、女の子Aは健気にがんばって、男の子との恋を実らせる。
颯は女の子Aに嫌がらせをする場面をたくさん演じていかなければならなかった。女の子Aに過激な言葉を使ったり、睨みつけたり嘲笑するとか暴力的な振る舞いをして女の子Aを追い詰めていく。
こんな演技、やりたくないなあと何度も思ったが、仕事は最後まで果たさねば、と颯はがんばった。いろんなアイドルが多様なジャンルで活躍している現代、颯も努力しなければ置いていかれてしまう。
それから撮影が進むうちに以前プロデューサーが言っていたことの意味もだんだんわかってきた。悪役は外せない重要な役割だと。ストーリーが展開するうちに、他人を傷つける奴も起承転結のある物語の中には必要だと颯も感じるようになった。しかし単に悪く振る舞って他人をディスっていても演じている颯本人がおもしろくないし演技に厚みがでない。自分なりに、よくできた悪役をやってみたい。
だが悪役をうまくやりきるのは難しい。女の子Aにダメージを与える演技をどうやったら過不足なくきっちりできるだろうか。颯なりに嫌みな女の子を一生懸命やってみたが、しっくりこない。
颯が女の子Aをひどく責め立てる場面を収録していたその日、颯の演技はなかなかいい出来栄えだ、と撮影現場を見ながらプロデューサーは思った。必死になって悪いキャラクターを演じて、リテイクを重ねながらオーケーをもらう。演技のレベル自体は低くないから、そこそこ評価される映画になるんじゃなかろうかとプロデューサーは颯を見守った。
しかし颯自身はこの映画をどう評価するだろう。キャリアの中の汚点と考えるだろうか。善ではなく悪を演じること、颯がそのことを通じてなにを得るか。どの方向への歩みとなるか。
ダンスレッスンを終えたゆかりが休憩室に入ると、険しい顔つきの颯がサイダーをガブガブ飲んでいた。やけになって飲みまくっている感じ。ゆかりはミネラルウォーターを自販機で買って颯に近づいた。
「颯ちゃん、どうしたんですか。炭酸を一気飲みするのってよろしくない感じがしますが」
颯はテーブルの上にサイダーの缶を乱暴に置いて言った。
「あー、ゆかりちゃん。ちょっとね、仕事のストレスっていうの? モヤモヤしたことがずっと頭の中にあってさ。サイダーを豪快に飲めばそれをある程度解消して気分転換に成功できるんじゃないかって思って実験してたの。うまくいかないけど」
「仕事のストレスというと、どんなものでしょうか」
ゆかりに問われると、颯はサイダーの缶を両手で包んで言った。
「いまね、短編の映画を撮ってるの。はーは、その中の悪役を演じてるんだ。演技自体は及第点っぽいんだけど、立派な悪役を演じ続けるのは難しいなって思って……」
颯は言葉を切って、サイダーを口に運んだが、中身はもう空になっていた。ゆかりが言う。
「颯ちゃんは悪役を演じるのがきつくて、もうやめたいと?」
「ううん、確かにハードだなって思うんだけど……それを乗り越えたいとも感じてるんだ。悪役をやれって言われて、演じるのはそりゃしんどい。だけど、ストーリーの中では大切な役割なんだってPちゃんは言ってたし、はーも撮影してるうちにいろいろ考えるようになった。役割にコミットして、いい感じの悪役を演じきれたら最高だって思う。だけどそれをどう実現するかがよくわからなくてスッキリしないんだ……」
ゆかりは深く頷いてから言った。
「颯ちゃん、いつかここで、一緒にドラマを見ましたよね。颯ちゃんが主人公で、バンドを率いるドラマを」
「ああ、あれは楽しかったね」
「あのドラマの逆をやればいいのではないでしょうか。主人公を演じていたときにオンになっていたスイッチと逆のスイッチをオンにすればいいのでは?」
「スイッチ?」
「悪役とは主人公の反対側にいるキャラクターでしょう。だから主人公と正反対の振る舞いをする。悪役を演じるなら、物語の中で善となっている主人公と逆のスイッチをオンにすればいいんですよ。それなら、颯ちゃんにも十二分に可能なのでは? 主人公を立派に演じた経験があるのですから」
「逆転した役……そっか」
映画のストーリー上、女の子Aも女の子Bも男の子と恋仲になりたいと思っている。しかしその行動は正反対のものとして現れる。だからこそ善と悪それぞれの闘いがはっきりそこに展開される。悪役を演じるなら、善と反対のことをやればいい。言われてみれば単純なものだった。
女の子Aは颯を乗り越えて男の子と結ばれる。颯も女の子Aを乗り越えて自分の望みを叶えようとする。根っこでは同じ願いを持ち、お互いを乗り越えようと願う。その闘争のスタイルが逆さまだから善と悪がしっかり現れるのだ。なら颯は内気で優しい女の子Aがとる闘いと逆の闘いを仕掛ければいい。スイッチを切り替えて。それならできそうだ。
颯の双子の姉、凪は自室でパソコンを立ち上げた。
「なーのパソコン、起動するの遅いね」
凪の部屋を訪れている颯がポテトチップスを食べながら言った。
「デスクトップにいろいろなものを置いていますからね。今度片づけましょう」
そう言って凪はブラウザをクリックし、ネットにアクセスする。ふたりでいまから颯が悪役を演じた短編映画を見ようとしているのだった。凪はぽちぽちパソコンを操作して、映画を見る準備を整えた。
「では、我が妹の勇姿を見てみましょう」
「はーの演技、よく見ててね」
姉妹は並んで映画を見た。颯がところどころ撮影時の苦労話を入れ、凪はほうほうそれはそれはわーおすっごーいぼんじゅーると応じた。短編映画なのでラストシーンを迎えるまでそれほど時間はかからなかった。女の子Aと男の子が手を繋いで夕暮れの道を歩くシーンだ。間も無く映画が終わる。凪が言った。
「他人を攻撃するはーちゃんなど普段は見かけられない光景でしたね」
「大変だったよ、この仕事」
「そうですね。はーちゃんはどちらかといえば攻めるより攻められるほうが好きですものね。ちょっと痛くされたほうが気持ちいいというか」
颯は少しうろたえた。
「そ、そんなことないよ」
「でも、これではーちゃんは悪役の気持ちを知ったわけでしょう。主人公側の気持ちも知っているし、悪役の心模様も知った。今後はより巧みな演技ができるのでは? 悪しきものも演じられるし良い奴も演じられる。良いマインドと悪いマインドを行ったり来たりする役もイケる。善悪が混じり合った役もこなせる。37%善で63%悪の人間も演じられるでしょう」
「なるほどなー。そういうことも言えるんだ。どんな仕事もやってみるもんだね」
映画が終わる寸前、パソコンの画面には颯が演じる女の子Bがとぼとぼと歩いていくシーンが映っていた。