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ふくしま浜街道トレイル冒険録6:大熊につどう人々(双葉→夜ノ森)

 前回の旅では、3月11日に合わせて浪江町・双葉町を歩くことにして、夜ノ森駅から大野駅を経て双葉駅までのセクションは後回しにしていた。このセクションを後回しにしていた理由の一つが、夜ノ森桜並木に桜の季節に訪れたいということだった。というわけで、桜の開花予想をチェックしつつ旅程を立て、4月にこのセクションを攻略することにした。

Day7:双葉駅→夜ノ森駅

2024年4月13日(土)
 今日歩くセクションのうち、大野駅から双葉駅までの区間はふくしま浜街道トレイル公式のルートでは常磐線に乗車して迂回するようになっている。大野駅が所在する双葉郡大熊町と双葉駅が所在する双葉郡双葉町は、福島第一原子力発電所の立地自治体である。原発に一番近いエリアは放射線量が高いからうろうろ歩かずに鉄道に乗ってスルーしなさい、ということだろうか?
 そういうわけではない。このエリアは避難指示の解除がまだあまり進んでいないので、歩くことができる道が限られてしまう。大熊町と双葉町をつなぐ幹線道路である国道6号線は通行止めにはなっておらず、歩行者の通行も規制されていないので、歩くことができる。ただ、国道は交通量が多く、歩道のない箇所も多いので、歩くのはとても危ない。要するに、歩くことに適した道が無いので公式には歩くことを推奨していないというだけだ。
 しかし、それではちょっと物足りない。せっかくだから福島第一原発の一番近くを自分の足で歩いてみたい。だから、あえて公式の指示は無視して(怒らないでね)自己責任で国道を歩くことにする。

 仙台駅から乗車した特急ひたち品川行は夜ノ森駅を通過するので、今日のセクションは双葉駅から大野駅を経由して夜ノ森駅に向け南向きに歩くことにして、双葉駅前に降り立った。
 双葉郡双葉町は原発事故による避難指示の一部解除が一番最後になった市町村である。2022年になって一部の地域で避難指示が解除され、町役場も戻ってきたが、今でも町の多くの部分は立ち入りが規制されている。
 福島第一原子力発電所の所在自治体である双葉町と大熊町に、双葉町の北隣の浪江町、山間部の葛尾村を加えた4町の大部分は江戸時代は相馬藩に属し、標葉(しめは)郷と呼ばれていた。相馬藩のお祭りである相馬野馬追には、この4町から標葉郷として騎馬武者が参加するが、原発事故以降数年は標葉郷からは野馬追への参加ができなくなっていた。避難指示の解除とともに野馬追関連行事も徐々に再開し、2024年には双葉町でも騎馬武者の行列が行われた。
 双葉駅前にある初發神社という神社は、相馬藩が信仰する妙見菩薩を祀った神社で、震災後に再建された拝殿が建っている。野馬追の際はこの神社で安全祈願祭が執り行われるということだ。

 双葉の駅前は、震災直後のままの建物がいくつかある。前回も訪れた、時計が14時46分で止まったままの消防屯所の建物の側面には、何やら人の顔とTOGETHERという文字のアートがペイントしてある。これはFUTABA Art Districtというプロジェクトで、壁面をアートで彩られた建物(ミューラルアートと呼ぶらしい)が何軒か双葉駅前に点在している。

アートを施された消防屯所

 原発周辺の被災地には今どれだけの廃墟が広がっているのか、ということに興味を持つ人も多いかもしれない。世間には廃墟マニアという人たちがいて、双葉郡の被災地もそういう人たちか好奇の目を向ける対象の一つになっているであろうし、正直に言うと私自身もふくしま浜街道トレイルを歩き始めるまでは、廃墟の写真を撮って同人誌の表紙にしようかと目論んでいた。
 しかし、実際に双葉郡を歩いてみた後になってみれば、原発事故後のままになっている建物を「廃墟」とはあまり表現したくないと感じた。3月11日に突然日常生活を断ち切られた建物。いつか帰る人を待っているのか、解体されて更地に戻るのか、それともそのまま朽ちていくのか、宙ぶらりんなまま時間ばかりが過ぎ去ってしまっている建物を廃墟と呼んでしまうと、その地で生活を営んでいた人や、この場所を故郷と呼ぶ人、故郷に帰ることができずにいる人たちの思いを過去のものにしてしまう。しかし、原発事故に見舞われた人の苦しみは現在も続いており、過去のものではない。
 このFUTABA Art Districtという取り組みによってアートが施された建物は、もはや廃墟ではない。14時46分で止まったままの時計やひしゃげたままのシャッターは、確かに廃墟マニアの目を惹きつけるものかもしれないが、壁面にアートが施されたことで、この建物は単に過去の遺物ではなく、未来への力をもった地域のシンボルになっている。とはいえアートが施された建物は宮城県や岩手県の被災地のように震災遺構として保存されているわけではないので、復興の歩みによってはこの先建物自体が解体されることもあるかもしれない。「ふくしまの今」を強く印象付ける光景が、双葉駅前にはある。

 歩みを進めよう。双葉町から大熊町に向かって国道6号線を歩いていく。先にも述べた通り、東京電力福島第一原子力発電所はこの2町をまたいで建っている。工事用車両が行き交う国道6号線から福島第一原発方面に向かう道にはバリケードがされ、国道より近くに立ち入ることはできない。原子炉の建屋は、国道からは遠くにぼんやりと見えるだけだ。原子力発電所敷地の周辺、かつては水田や山林だったはずの場所が中間貯蔵施設として使われているのが目につくが、それ以外は正直言って何か特別な風景が見られるというほどでもない。

原子力発電所の入口は通行止
高圧電線の向こうに原子炉建屋を望む

 原子力発電所から伸びる高圧電線は南へ、つまり首都圏に向かっている。
 福島第一原子力発電所は、東京電力が運営していたことからわかるとおり、首都圏への電源供給を主な目的として建設された。福島第二原子力発電所も同様だ。浜通りに点在する火力発電所も多くが首都圏に電気を送っている(たとえば、新地町にある新地火力発電所は相馬共同火力発電という会社が運営しているが、この共同とは東北電力と東京電力の両方が出資していることを示している)し、福島県と新潟県の県境付近にある水力発電所も含め、震災以前の福島県は首都圏の電気の3分の1ほどを供給する日本で最も発電量の多い都道府県だった。震災以前の福島県の人は、首都圏の生活や産業は福島県の電気が支えているという自負を共有していた。
 しかし首都圏にお住いの人のうち、どれだけの人が福島県の原子力発電所が首都圏へ電気を供給するために存在していたことをきちんと認識しているだろうか。原子力発電というものへの賛否は人によってさまざまであろうが、賛否いずれの意見を持つにせよ、あれだけ大きな事故が起こってなお、首都圏の人々が自分たちの生活を何ら脅かされることなく今も暮らすことができているのは、原子力発電所の持つリスクを福島県に押し付けていたおかげだ、と主張してみたところで、賛同してくれる人が少ないのはわかっている。しかし、一般論として、利益を享受しておきながら、そのリスクを自らが負わないのはフェアではない。福島県出身者として、そう主張することくらいは許されたい。

 福島第一原子力発電所の周辺のエリアは現在、「中間貯蔵施設」という広大な施設になっている。福島県内の除染などで発生した廃棄物を「一時的に保管」するための施設で、除染廃棄物の詰め込まれたフレコンバッグが大量に「仮埋設」されており、除染廃棄物は将来的には福島県以外の土地で「最終処分」する予定であるから、「中間貯蔵施設」という名称になっている。
 除染廃棄物といってもその実態はほとんどが土だ。福島県周辺の広い範囲で震災直後数年かけて行われた除染。除染というと何か特殊な作業のように思えるかもしれないが、実態は住宅の周辺の草を刈り、表土をはぎ取ったにすぎない。そのはぎ取った土は「減容化施設」という焼却炉で草や根など可燃物の容量を減らし、フレコンバッグにつめられて中間貯蔵施設に搬入され保管されている。大熊町にはこの中間貯蔵施設について解説する小さな資料館「中間貯蔵工事情報センター」があるので、立ち寄って説明を聞く。中間貯蔵施設への廃棄物の搬入はほぼ完了しているということで、この情報センターの展示は現在貯蔵されている除去土壌の再生利用と、最終処分についての説明が中心となっている。除去土壌の再生利用とは、除染によって発生した土を、道路などを造成する際に利用することで最終処分する廃棄物の容量を少なくするという趣旨のものだが、首都圏での実証実験が該当自治体の反発によって頓挫したままになっている。ましてや最終処分など、現実的に福島県外の自治体が受け入れてくれるはずもないだろう。国が定めた計画では、30年以内に福島県外で最終処分するということになっているが…、もうこのまま将来的に「中間貯蔵施設」に保管されたままにしておくしかないのではと思うのは、私だけではないだろう。

中間貯蔵工事情報センター

 国道6号線を逸れて、大熊町の中心市街地に向かって歩いていく。大熊町のかつての中心市街地は「大野」といい、常磐線の駅の名も「大野駅」という。大野駅は福島第一原子力発電所の最寄り駅でもある。大熊町は避難指示の解除後、原子力発電所に近い大野の市街地ではなく、先行して避難指示の解除された西部の大川原地区を復興の拠点とすることを選び、町役場などの建物を整備した。そのため大野駅前の市街地は閑散としている。
 それにしてもお腹がすいたが、このあたりにコンビニなど食べ物を扱う商店はない。しかし、大野駅前の自動販売機におでんの缶詰が売っているのを発見した。缶詰には竹串が入っており、箸が無くても食べられる。空きっ腹に、塩気の強い冷えたおでんは格別の味だった。

おでん缶

 橋上駅舎になっている大野駅を通り抜けて駅の西側に出ると、ここからはトレイル本線に復帰することになる。駅の西側では駅前広場や様々な施設を作る工事の真っ最中だが、その一角の小さな建物にキッチンカーが止まっていた。おでん缶詰だけでは腹が満たされていなかったので、もしかして食べ物にありつけるのではと思って覗き込んでみたが、今日は営業していないようだ。すると、正面の建物から女性に声をかけられ建物の中に招き入れていただいた。
 この建物はKUMA・PREといい、UR都市機構が大熊町の復興に向けたコミュニティの拠点の"プレ施設"として運営しているそうだ。建物の中は集会所のようになっていて、大熊町でキウイの栽培に取り組んでいる皆さんの集会が開かれていた。冷えたお水をいただき少し休憩したのち、KUMA・PREを辞して歩き始める。

KUMA・PRE

 大熊町役場に向かってトレイルを歩いていくと、車から先ほど声をかけてくれた女性が降りてきた。どうやら、さきほどKUMA・PREに集まっていた皆さんがキウイを栽培する農場がこの先にあるらしく、農場を見学していきませんか、とお誘いいただいた。せっかくなのでお言葉に甘えて寄り道することに。農場には「おおくまキウイ再生クラブ」の看板が立ち、さきほどの皆さんが「芽かき」の作業を行っていた。
 キウイは震災前の大熊町の特産品の一つだった。そのキウイ栽培を再生させるためにこの場所に集まった人たち。話を聞くと、地元大熊の人だけでなく、移住してきた方や首都圏の大学生など、色々なバックグラウンドの人が集っているそうだ。一時は全町避難を余儀なくされた大熊町。戻ってきた人だけでなく新しくやってきた人たちも大熊に集まって、新しい価値を生み出そうとしている。

キウイの芽かき作業の最中
おおくまキウイ再生クラブ

 私が訪れた日の作業の模様↓

 ちなみにKUMA・PREは2024年の12月をもって閉館するそうだ。目まぐるしく変化していく双葉郡の復興の中で、大熊町の復興も次のステージに進むということだろう。

 キウイ農場の皆さんと別れ、大熊町役場のある大川原地区に歩いていく。役場の周辺には災害公営住宅が広がり、大熊町交流ゾーンというエリアには商店や宿泊施設などが集まっている。「linkる大熊」という公民館のような建物の中には音楽スタジオやスポーツジムなどもあり、町の拠点としては十分な規模だ。公営住宅に隣接して「学び舎 ゆめの森」というこども園と義務教育学校が一体となっている町立の学校もある。町の機能がコンパクトに集まっており、住み心地は良さそうだ。

linkる大熊にもおおくまキウイ再生クラブを取り上げた記事が貼ってある
立ち並ぶ災害公営住宅

 大熊町と富岡町の境界を越え、夜ノ森へ向かうと、特急ひたちが警笛を轟かせながら橋を渡っていった。

特急ひたち

 夜ノ森駅の南側に約2.5kmに渡って並ぶ桜の名所「夜ノ森桜並木」はちょうど満開で、出店もちらほらと出ている。桜並木の道路は歩行者天国ではなく、訪問者の車が行き交っているので、桜のトンネルの写真を撮ろうと思えば車がいなくなる瞬間を狙うしかない。
 この桜並木も震災以降10年以上立ち入ることができなくなっていたが、今は自由に桜を楽しむことができる。震災前の賑わいにはまだ及ばないかもしれないが、多くの人が桜を見に集まっていた。

桜のトンネル

 いろいろなことがあった一日だった。双葉駅から夜ノ森駅まで18kmを、約6時間かけて歩いた。
 以下の地図では、赤色で示した公式のトレイルルートのほか、ルートを逸れて歩いた箇所は青色で実際歩いたルートを示している。大野駅から双葉駅までの公式には常磐線に乗ることになっている区間は、私のように交通量の多い国道を歩くのは危ないので、できれば公式のルートに従うことをおすすめしたい。

 南側のセクションは↓

 北側のセクションは↓

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