東京から北海道に移住した理由。それは広大な「余白」に惹かれたから。
私事だが、2020年9月に北海道をバイク旅している最中に、そのまま札幌市に移住した。
経緯を語ると長くなるため、今回は省略させて頂く。
本記事では北海道の最大の魅力と、余白についての考察について、写真を交えて論じていきたいと思う。
■北海道の最大の魅力は広大な「余白」
北海道はデカい。
北海道に訪れた事が無い方でも、それは共通認識だろう。
ではどれ位デカいのか?
もっと噛み砕いてお伝えしたい。
まず、デカいと何がいいのだろうか?生活していて、デカい事のメリットは何だろうか?
分かりやすく比較するために東京と比べてみよう。
ちなみに私は世田谷生まれ、八王子育ちなので、東京の規模感は頭に入っているつもりだ。
さらに補足すると高校3年間は北海道で過ごし、卒業後も5年連続北海道を全道各地、離島含め旅してきた過去がある。現在は札幌に住んでいるので、北海道の規模感は全道的に把握している。
・東京には余白が無い
東京を歩いていていると、いつも思う。
近い。
建物、人、車、バイク、自転車が、物理的に私個人との距離が近いのだ。
それは東京が「世界一のメガシティ」であるが故の弊害で、狭い土地に人を詰め込みすぎているから、というよりかは、単純に人口密度が高すぎるのだ。
これら建物、人、車、バイク、自転車には、情報が多分に含まれている。
言い換えるならば、音、光、匂いだ。
特に人と建物の情報量の多さは尋常ではなく、私は1時間も東京を散歩していると、その情報量の多さに疲弊して頭が回らなくなってしまう。
そんな時はどこかカフェなり、店が無ければ路肩に逸れて小休止するのだ。
だが、ここで東京の最大の問題が発生する。
それは、休憩する余白が無いのだ。
心理的に余白が無いのは勿論、物理的にも無いのだ。
新宿、渋谷、池袋、東京駅周辺、脇道に逸れて腰掛けられる所は一切無い。
ではカフェにでも立ち寄って行こうか。だが東京の物価は高い。一杯コーヒーを頼むだけで500円はする。たかが10分程度の休憩にそんな金は払っていられない。
では安いマクドナルドはどうだ?
それは本松転倒。都内のマクドナルドはどの時間、どこに行っても人に溢れかえっていて、休憩をするつもりが却って疲れを増長させる事になる。
だから1番コスパの良い休憩方法はコンビニで100円コーヒーを買って、どこか適当な公園か、道端のちょっとした隙間に腰掛けてコーヒーでも啜る事なのだ。
だがしかし、それが東京では出来ないのだ!
余白が、無いのだ。
余白だから、ちょっとした空間で良い。それは建物の隙間であったり、大きさは問わないから空き地でも良い。何でもいいのだ。大都会東京の情報量から、数分でも逃れられる「余白」があれば、メンタルポイントは0から1に回復する。たかが1かと思われるかもしれないが、その1でどれほど感性が救われるだろうか。
情報から逃げられる「余白」が、少なくとも私にとっては必要なのだ。
どこに行っても人がいる。どんな薄暗い脇道に逃げても、どんな怪しげな路地に逃げても、「ヒト」がいる。
実際にはいなくても、その気配がするだけで休憩にはならない。
では都心部から離れた郊外には余白があるのではないか?
私が育った街、「八王子」を例に上げてみよう。
あまりここで長々と時間を取りたくないので結論から論じてしまうが、八王子含め東京郊外には時間の余白が無い。
物理的な土地の余白は東京都心に比べれば確かに存在する。だが、東京郊外に住む住人の大半が東京都心に通勤するヒト達だ。
つまり東京都心特有の、あの「生き急ぐ感覚」を無意識で郊外に運んでくる。目には見えなくとも、土地としての余白が多少あったとしても、「生き急ぐ時間の余白の無さ」を私は感じるのだ。
東京を歩いていると私はいつも思う。
「隙間をくれ!余白をくれ!」
物理的な、時空間的な、東京の情報から離れられる余白が、そこには無いのだ。
・北海道には広大な余白がある
では本題の、北海道はどうだろうか。
笑っちゃう位の広大な余白が、そこにはある。
もちろん北海道は大自然国家だから、余白があるのは当たり前である。より自然に近づけば近づくほど、余白は存在している。それは本州も同じだ。
自然の中にはヒトがいない。つまり余白があるのは至極当たり前な事な訳だ。当然本州の自然にも余白はある。
だが北海道は本州の自然と比べて、圧倒的に余白を感じられる。
理由は植生にあるだろう。そして山の地形の違い。以下北海道の十勝岳を登山した時の写真↓
北海道の山を登山していても、森特有の閉塞感を感じる事が少ない。それは木々の間隔が適度に空いており、木自体も針葉樹が多いからか、葉が上部に密集している。つまり人間の身長の目線には木々の葉が見えない。そして草も笹が多く、形が直線的なものばかりで、森の情報としては単純で情報処理が簡素で済む。
だから山の中でも木々の隙間から、そこそこ遠くを見通せるのだ。それが余白に繋がる。
それが本州の山はどうだろうか。
下の写真はバイクで関東の林道を探検している時の写真だ↓
主な木々は広葉樹で、木の種類にもよるだろうが、木々の葉が人間の身長の目線まで下がっている。加えて草の形も無駄にバラエティ豊かで、形の情報量が多い。ヒトの情報量は確かに皆無ではあるが、森の情報量は圧倒的に本州の方が過多なのである。あくまで私にとってだが。
では次に都会で比べてみよう。北海道の首都、札幌はどうだろうか?
札幌は大都会だ。当然東京と比べれば人口も経済規模も劣るが、東京以北では、途中の東北の首都「仙台」を抜き去って断トツで都会である。
私は過去に海外17カ国の国々を旅してきた経験があるが、アジアの小国(ラオス、カンボジア、ネパールなど)の首都に比べれば、札幌の方がより都会的である。規模感としてはカナダで最大の経済都市、「トロント」と似た規模感だ↓
だから当然札幌にも都会の定めとして、「ヒト」が多い。つまり情報量が多いのだ。建物も、車も、人工物も当然多い。日本の5本指に入るくらい多い。
じゃあ東京と同じで余白が無いんじゃないの?
それがね、
あるんだよ笑
しかも、十分すぎる位の余白が。
具体的に札幌の余白を論じていこう。
まず、東京でも指摘した休憩問題。
これは札幌は完全に解決している。なぜならば「大通公園」が都会の真ん中に存在しているからだ。
札幌の土地勘が無い方のために説明すると、札幌中心地は大きく分けて二つのエリアに分けられる。それが「札幌駅前エリア」と「すすきのエリア」だ。
新宿で例えるならば、都庁前と歌舞伎町の様なイメージである。
つまり札幌駅前エリアが政治、行政の様なお堅いエリアで、すすきのエリアが歓楽街エリアである。
そして大通公園が、その札幌駅前エリアとすすきのエリアを丁度分断する形で1.5kmも続く。
その名の通り公園だから、ベンチもあるし、腰をかけらる隙間や、ヒトから逃れられる隙間がある。それが1.5kmも存在するのだから、当然人口密度は低い。
真の意味で大都会札幌のオアシスなのだ。
情報から逃れられる余白が、札幌はちゃんと用意してくれているのだ。
そして札幌は道が広い。
余談ではあるが、札幌は道路が広いため、あまり公言は出来ないが路駐がしやすい街である。東京以北で最大の歓楽街、ススキノの中心地でも路駐は容易い。この、「いつでも停まれますぜ」感が、運転の余裕に繋がる。つまり心に余白を作れる。
そして歩道も東京に比べて2〜3倍の広さがあるため、ヒトと接触する事が無い。接触しないから、情報を感知せずに済む。結果、感性が消耗せず、生き心地が良い。
そして「豊平川」という、札幌を南北に分断する大きな河川敷があるのも有難い。
河川敷はヒトの量を遥かに凌駕する圧倒的なパワーによって、様々なヒトの情報を遮断してくれる。散歩がてら豊平川を散歩するだけで、気軽に気分転換が出来る。感覚としては、京都の鴨川に通ずるだろう。
そして札幌郊外まで足を伸ばせば、そこには余白天国が広がる。少し道を逸れればヒトの気配の無い公園や自然がそこにはあり、もはや説明不要である。
そして本質は北海道の道東と道北だ。
私は北海道の余白の聖地は釧路、根室、網走などの道東。そして旭川、稚内を有する道北に北海道の本質は存在すると考える。
ここまで来ると、もはや感覚、感性の世界なので、論理的に説明するのが難しい。とにかく余白に溢れているのだ。
考える余白。思考する余白。感じる余白。表現する余白。それらが道東、道北エリアには満ち溢れている。
そして札幌在住であれば、それらの地にに2泊3日の小旅行でアクセス出来るのだ。
翻って、また東京と比べてみよう。
東京から2泊3日程で気軽に行ける旅行先を上げるならば、千葉の房総や栃木の日光、群馬の草津や長野の軽井沢あたりが人気だろう。
ここで不意にだが問いかけたい。それらの地に「想像を上回る驚き」はあるだろうか?
人それぞれ感性が違うから感じ方は様々だろう。だが少なくとも私には、「日常からの逸脱としての驚き」は上記の土地からは感じられない。
想像通りだし、なるほどね。で完結してしまう。考えられるキャパシティが100%を超える事は絶対に無い。100%を越えないから、考えられる余白が生まれないのだ。
繰り返すが、あくまで私にとっては。である。
では北海道の道東、道北はどうだろうか。
どこを訪れても、何回同じ土地を訪れたとしても、何故か想像を超えた驚きがあるのだ。
自分の頭の中で考えていたシミュレーションを、現実が飛び越えていく。
突然超えてきた目の前に広がる圧倒的な美しい現実に、私の頭は様々な情報を受け取り、考える。それは都会的な無彩色の退屈な情報ではなく、色鮮やかな有彩色の情報。
その時、私は考える余白を与えられる。
既に100%の自分の想像を上回っているから、それを101%にしようが、1586%にしようが、1億%にしようが、自分の思いのままである。そこから感じ、考える自由は全て私にあり、考え、答えを出す選択肢は無限にある。
そう、考える余白があるのだ。
土地に驚きがある=考える余白がある
これが私の北海道へ移住した理由だ。
■広大な余白に気軽にアクセス出来るのは北海道だけ
東京、本州に想像を超える驚きが全く無い訳では無い。青森の下北半島や大阪の下町文化にも私はあると考えるし、北海道とは違う驚きも各地様々あるのは存じている。以下大阪↓
だが、余白の広大さという観点においては、日本の国土の中では北海道だけだ。私は余白の広大さに重きを置いている。
東京に住んでいては、北海道の広大な余白へ気軽にアクセスする事は出来ない。北海道は飛行機で行けば意外と近いのだが、そう頻繁に行ける距離ではやはり無い。
それが北海道に住んでいれば、当然気軽にアクセス出来る。もちろん札幌から道東に行こうとすれば、100km単位で車を走らせなければいけないが。
だが行こうと思えば、深夜に出発すれば朝には広大な余白にアクセス出来るという浪漫がある。
では「道東、道北に移住すればいいのでは」と思われるかもしれないが、ここまで論じて、私はやはりヒトが好きであり、都会が好きなのである。
だから日常を札幌という大都会で生活し、非日常として道東道北を扱う事で、気軽さと日常のバランスを上手く保っているのだ。
やはり人間は慣れる生き物で、普段から広大な余白を感じていたら、それが当たり前になってしまう。私は北海道に想い、焦がれているが、慣れればやはり私の驚きの指数は徐々に鈍くなっていく筈。
それは自分自身で最も恐れる状態であり、生き心地の良さと浪漫をバランス良く味わうためには、札幌に住み、たまにより広い広大な余白を求めて気軽に北海道の各所へ旅をするという生活が、今の私にとってのベストなのだ。
怠惰と慣れという人間の習慣を逆手に取ったのである。
それに私にとって札幌は、3本指に入る大好きな街だし。
人は自由に生きる事を望むし、私にとっての自由は考える余白が広い事が重要であるから、私の感性が北海道に驚き続けるまでは、北海道に住み続けるつもりだ。
ご拝読頂き感謝。
AATO
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