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私が映画館デートをやめた理由

数ある娯楽のなかで、真面目すぎず、不真面目すぎない、独特のポジショニングにいる奴がいる。

映画である。

週末なにしてた?と聞かれて、1日中ゲームをしてた、漫画を読んでた、アニメを見ていた、というと、ふさぎ込んでいるのかと心配そうな目をむけられることがある。もしくは、アメリカドラマをイッキ見したというと、話が盛り上がることもあるが、アホな奴だと蔑視されたこともある。はたまた、美術館にいった、芝居を観に行ったというと、そういう趣味をお持ちなんですね、と嫌味のようにいわれたこともある。芝居なんて娯楽にすぎないのに!

しかし、映画をゆっくり見ていた、というと、普通の反応がかえってくるから面倒くさくはない。たしかに、ドラマや短編ものよりかは、約2時間に時間とお金を集中させるわけだから、監督や役者も気合いの入れ方が違うのだろう。ドラマと違って、映画はすべての画面に無駄がないようにつくられている、と、高校の先生が言っていたのを思い出す。

そんなこんなで、映画は、他の娯楽とは一線を画する。

だからだろう、最も無難なデートランキングでいうと、映画は、食事に次ぐ第二位である。(わたし調べ)

イラチの大阪人にとって、テーマパークデートは並ぶ時間にイライラしてちっとも楽しめない。水族館や動物園は1年に1回いけばもう十分だ。美術館や芝居は人を選ぶことがわかっているし、ゲームや漫画は家が主戦場になり、はじめの頃のデートには不向きである。映画館デートは、お出かけデートの定番ともいえる。

ちなみに、はじめて東京にきたときのこと。同期の男から、初めての東京でどこかいきたいとこない?一緒に週末遊ぼう、と誘われたことがある。大阪にないものがいいと思った私は、浅草か皇居か靖国神社にいきたい、とこたえた。その男と私がお出かけをすることはなかった。今思えば、あれはデートの誘いだったのだろう。あのとき、映画といえばよかったのかもしれないが、初めての東京観光というと、あれくらいしか思い浮かばなかったのだから仕方ない。

さて、そんなわけで、映画はデートにおける最も無難な選択肢だといえる。

しかし、映画でも何を選ぶかで、この無難さはかわってくる。

学生の頃。はじめてできた彼氏との初デートで、何がしたい?ときかれたとき、私は「映画がみたい!」といった。夕方頃の映画にして、夜は食事をしようといわれた。なるほど、いたってフツーである。

その後、なにかみたいのある?と聞かれて、私は困った。ちょっとは自分からおすすめを提案してはどうかと思った。なにかみたいのある?と聞き返すとなんでもいいという。何がしたいか聞き、なにかみたいのあるかと聞く。御用聞きのような男だなと思ったが、はじめての彼氏なのでそんなものなのかとも思った。

なにかみたいもの…と上映中の映画を調べてみると、ある映画が目にとまった。当時、私はジョニー・デップの顔がとても好きだった。その彼氏は、非常に淡白なうすい真逆の顔をしていたのだが。そんな顔が大好きジョニー・デップの新作がでるというので、それをみてみたいといった。理由はもちろんいわなかった。

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』だ。

私が提案したら結局それをみることになった。特にあらすじは確認せずに。

音楽が流れると、赤いものが流れている。あれ?これはもしかして血だろうか?いやいや、ミュージカルだし、そんなホラーってことはないだろう。私はホラーは絶対にみることができない。ミュージカルxホラーなんて聞いたことはない。だからこういう演出ということはサスペンスなのだろう。が、胸騒ぎが止まらない。

舞台は、19世紀末のロンドン。色好みの判事に妻子をとられて流刑になったジョニー・デップ演じる理髪師の主人公が、15年ぶりにロンドンに帰ってきて復讐するという物語だ。

あらすじだけ聞けばふむふむ復讐劇か、よくある話だと思う。ただ、見ていくと、だんだんその不気味さが増していく。彼に握られた手が汗ばむのを感じた。

物語が進むと、理髪師の主人公が殺人を犯す。そしてその死体を処理するために、下の階の飲食店を経営している女性が人肉パイをつくる。このスキームがうまくいくとわかると、大量生産できる仕組みがつくられ、その店が大繁盛していくのである。多くの血が流れ、多くの人肉パイがつくられる。人々が人肉パイを食べる光景は異様である。

映画が終わると、握られていた手はどこかに消えていて、彼が買ってくれたポップコーンは湿気ていた。

食事の時間になった。今でも覚えているが、なぜか肉がメインのイタリアンだった。人肉パイの映画をみたあとに、肉を食べるのは気がすすまなかった。肉を食べながら、その彼は、ああいうのが好きなの?とやや白けた顔で聞いてきた。

いや、私はジョニー・デップの顔が好きなのよと思ったが、あの顔が好きだと、のっぺらぼうのような彼にいうわけにもいかなかったので理由をいうのはやめた。

ああいう話って知らんかってん、こわかったなあ、とだけ言った。あまり話は続かずに、家に帰った。気持ちがとにかく重たかった。私の御用聞きをしたと思えば、非難してくる。その3ヶ月後、私たちは別れた。

それから、無難な映画デートをしたいときは、私は必ずあらすじを確認するようになった。ホラー・サスペンスは程度がわからないとリスキー、恋愛ものやミュージカルは男ウケが悪い、コメディは笑いのツボは人それぞれ、戦争モノは思想が衝突すると厄介、ヒューマンドラマはヘビーだとアウト…などと選んでいくと、結局は、わかりやすいハリウッド映画のアクションが無難だった。

映画館デートは無難であり、コンテンツもわかりやすさ重視のものを選べばさらに無難になる。

そうこうして、何度か映画館デートをしたあとにようやく気づいた。

この無難なデートは全くもっておもしろくなかった。

その映画が見たいならいい。ただ、無難だからという理由で選んだ映画なら、おもしろくない。相手にも失礼である。

しかも、映画館デートは、会話をあまりしなくてもよく、その後の食事では映画の感想という共通の話題ができるから、初期デートにいいと思っていた。けれども、無難な映画というのは、あまり深みもなく、語り合う内容もうすっぺらくなる。こうなるとただの世間話だ。

もっといえば、そもそも会話をあまりしなくてもいい、共通の話題ができる、という工夫をしなければいけない相手とデートをすること自体が無駄だった。

わざわざ時間とお金をかけて、なぜこんな無難な選択肢を繰り返す必要があるのだろう?なぜ打算的に行動する必要があるのだろう?そもそも無難な選択とは誰のために、なんのためにしているのだろう?

無難な選択をすると、その場では何も問題にはならない。事を荒立てたくないからなのか?それなら問題の先送りにしかなっていない。どうせ趣味があわない人とは長くは続かないのだから。もしくは変なやつと思われないためなのか?それはつまり、自分の面目のためなのか?東京観光にいきたい場所を言ったときの反応がトラウマのようになっているのか?しかし、これも結局は問題の先送りにしかなっていない。

それから、私は打算的なデートをすることを辞めた。打算的なデートをしなければいけなさそうな相手とは、はなから会わないことにした。

そうすると、本当に気があう相手としか時間を使わなくなる。そのほうがよっぽど有意義に思えた。とはいえ、そんなに気のあう相手というのはなかなかいないものだ。

仕事が忙しくなり、仕事が恋人のような生活を送った。それでも無駄に無難な世間話を続けるよりかはよっぽど気持ちよかった。


今の旦那さんと出会ったのは、仕事が恋人になってからしばらくしてからだった。

旦那さんとは、一度も映画館デートをせずに結婚した。でも、今までの誰よりも、一緒に漫画をよんで、アニメもドラマもみて、一緒に映画をみている。

旦那さんはスコッチウィスキー、私は赤ワインをいれて、ふたりでソファに腰をかけてプロジェクターに画面をうつす。おうち映画鑑賞会の完成だ。ヒューマンドラマ、フランス映画がふたりのお気に入りで、サスペンスもたまにみる。終わった後は、1時間でも2時間でも語り合っている。そして、アクション映画は、もうほとんどみていない。

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