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2003_横浜のお嬢様_part2.../3.市議に立候補する

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登場人物(2003年時点)
幸田麗華 日仏食品ビジネスサポート部長 1976年(27歳)
幸田(会澤)耕一 セダ 課長                        1970年(33歳)
幸田大介 輸入商事 会長                        1940年(63歳)
佐藤愛子 大介の妻                                      1966年(37歳)
江戸直樹 幸田商事 社長                           1950年(53歳)
江戸(有村)かす美 日仏食品ビジネスサポート課長1968年(27歳)
大阪真由美 幸田商事 輸入課長                   1963年(40歳)
山崎修  幸田商事 カスタマー課長            1960年(43歳)
ルシア・マルガリータ・ロペス ワイナリー勤務 1978年(25歳)
 
麗華の母、幸田美智子は麗華が4歳の時に、出産時の合併症で胎児と共に亡くなった。
それが、大介と麗華の命や子供への慈悲に大きな影響を与えた。

夫・耕一が前の恋人との間で出来た萌奈を養子として引き取ったのも、今回育児支援制度を導入したのも、母親が亡くなった件が大きく影響している。

それは会長の大介も同じである。
だからこの親子の女性社員やその家族への配慮は、深く、それはひとりひとりの社員に届いている。
幸田商事の育児支援制度は、大きな驚きを持って地元の新聞やTV,ラジオで取り上げられた。
新卒の応募も中途採用の応募もうなぎ登りで増加し、優秀な人材確保が進んだ。
そして、この提案者である麗華への注目も大きく、マスコミの取材申し込みは、増えて業務に支障が出るほどだった。

幸田家はクリスチャンだから、墓地には母親の墓石があり、毎月命日には、大介と麗華は、花を供えに行く。
麗華が4歳の時に母が亡くなったので、母の記憶は微かだが、その抱かれた時の温もりや香りは成長してからも、懐かしさと共に未だに残っている。
結婚してからは、耕一や萌奈、耕介も一緒に行くようになった。
この親子の亡き妻・母への思いは、耕一にも十分伝わっている。

だから育児支援制度の策定には、耕一は子会社セダの営業課長だったが、兼任でメインとして携わった。特に、問題となった、資金の調達には、耕一がメインの銀行と交渉した。

それは業務上も、適正な労働環境を整える事が、重要とされ、勤務時間の適正化やパワハラ、セクハラは厳正に対処された。定時退社は当然であり、残業は緊急の事案以外許可されなくなったし、社員も仕事だけで無く家庭を大切にする事になったが、それは理解され浸透した。以降、この手の問題は無くなった。

だから耕一の社内浮気もセクハラ扱いされ沈静化するに見えた..。
耕一の社内での女性社員への言動もジェントルになった。一番喜んだのは麗華だった。

そして、麗華は、育児支援制度を社内だけで無く、社会的に整備する必要性を痛感していた。
やはり、制度は社会的に整備する必要があり、それを整備するのは、行政の範囲であり、それを実現するために市議に立候補することを考えていた。
当然、自らの生活も家族の生活も大きく変化するために、耕一にまず相談した。

麗華「私、市議に立候補しようと思うの、社内だけじゃ無くて社会的に育児支援制度を整えることが、大切だと思うのよ。それを実現するためにね..応援してくれる..」

耕一「勿論だよ..全面的にサポートするよ..」
 
それが、2002年4月の出来事だった。


 


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