東京オリンピックのマスコット選出プロセスに見え隠れする問題について
今日、東京オリンピックのマスコットキャラクターが決定した。
選ばれたのはオリンピックのエンブレムをデザインとして取り入れた「ア」の作品である。
このキャラクター自体の優劣は別にして、その決定までのプロセスに極めて重要な問題が見え隠れする。
それは、デザインの公共性に関する問題である。
デザインという抽象化された概念において、複数の案から1つを選び出すことは難しい。
そこには定量的な指標が存在しないからである。
優れた有識者を集め、あらゆる視点から吟味して決定したデザインに関しても、何かにつけ非難を受けることもしばしばである。
その際に役に立つ方法が、市民および国民を取り入れた多数決のシステムである。
民による多数決で導かれた選択はすなわち民の総意であるとみなしていい。
これにより、選出後のバッシングを避けるのである。
この国民参加及び住民参加についてはヨーロッパでもよく見られ、特に生活に根付いた住環境の問題では住民の反対から計画が頓挫することも少なくない。
生活に根付いた身近な問題ではこのようなシステムも有効に働きうるが、この多数決というシステムは突出した成果を産むことはあまりない。
そういったものは往々にして、明確なビジョンを持った強いリーダーシップのもとで誕生する。
例えばパリのエッフェル塔は、建設時に市民から大きなバッシングを受けたものの、エッフェルの強い後押しのもと建設が進められ、現在ではパリのシンボルとして人々から愛され、また大きな経済効果を生んでいる。
この多数決のシステムというのは非常に厄介で、一度導入してしまうとなかなか元に戻すことができない。
元のシステムに戻るとはすなわち、人々にとってある種権利の喪失を意味するからである。
今回の東京オリンピックのマスコット選出に対しても多数決というシステムがとられたのであるが、一番の問題は投票の権利が小学生にのみにしか与えられなかったことである。
これは一見、未来ある子どもたちに日本を代表するキャラクターを選択するという大きなチャンスを与え、彼らに希望や夢を与える素晴らしい取り組みに見えるのであるが、見方を変えれば最終決定権を無邪気な子どもたちに丸投げしたということもできる。
そして、子どもの無邪気さを利用して、選出した案を批判し辛い空気をつくりだした。
子どもたちの決定であれば大人は文句を言えない。
これからの時代を作る子どもたちが決定したという事実は何より強い根拠になる。
デザイナーが情熱を持って未来を見据えて描いたキャラクターを、無邪気な子どもたちに委ねてしまう。
そんな国で、子どもたちは本当に未来を描けるのだろうか。
ーー20180301追記ーー
エンブレムの件があったから今回の投票はやむなしではといった意見がTwitterではちらほら見られるが、それこそが今回指摘している問題なのであって、だからといって多数決が正しい選択肢では決してない。
前回の反省を真摯に受け止めるのであれば、なおさら責任を持って今回の選出には検討に検討を重ねてキャラクターを選出するべきなのではないか。
それをせずに仕方なく投票のシステムに逃げるのは責任放棄に他ならない。
そもそもの発端のスタジアムの設計コンペの段階から、コンペ参加条件が厳しくほとんどの建築家が参加できないような状態だった。
そのような閉じたコンペから選出された案でさえ白紙撤回され、エンブレムでも不祥事が続いた。
それがキャラクターの選出では急に子どもを持ち上げて、民衆を味方につけようとする。
それで本当に民衆は満足するのだろうか。
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