倉俣史朗のデザイン―記憶のなかの小宇宙@京都国立現代美術館
確かに、倉俣史郎の『硝子の椅子』は、
「座っても大丈夫なものか」
「割れやしないか」
「座りやすいのか」
「そもそも椅子なのか」
などと、見るものに何らかの感情を抱かせる。
ガラスという材質もそうだが、直線的で直角的なラインという形状からしても、むやみに人を寄せ付けようとはしない緊張感があるため、その距離感をもって、人間はオブジェと自然と対峙せざるを得ない。
デザインというのは、人間をある目的に向けて誘導させる意味合いが強い。最近読んだアルトゥーロ・エスコバルの『多元世界に向けたデザイン』でも、デザインが資本主義下の動員の道具として扱われたことを問題視していたが、倉俣史郎のデザインは、そうした典型的なデザインから逸脱ないし彼自身の言葉を借りれば”浮遊”していた。
典型的な意味におけるデザインは、デザイナーの作為・意図のもとで作品が統御されているが、倉俣のそれは彼自身からも”無重力”であるようにみえる。
それは、
という言葉や夢日記からも分かる通りで、倉俣は、意識の下にねむる夢などの無意識から創作の糸を手繰り寄せてくる。人間は、意識によって作られたものは「分かる」が、無意識によって作られたものには戸惑いを感じる。その戸惑いが、人間とオブジェとの間の会話になっているのだ。
はて、しかしそうくると、倉俣の作品は、デザインではなくアートではないかという疑問がわいてくる。
いちおう彼の作品は大量(?)生産できることや、椅子やテーブルなどの家具というフォーマットにのっとっているからデザイナーであるといえると筆者は思うが、アートのマインドでデザインを行っていることが、倉俣史郎の独自性につながっている。もっとも、無重力や浮遊をキーワードとする倉俣を、デザイナーなのか?アーティストなのか?と問うのは野暮で、彼はそうした人間じみた(!?)問いの外部(無意識という意味では下部のほうが正しいかもしれない)にいる。
そんな彼の代表的な作品「硝子の椅子」。
表面は当然透明だが、断面には色がある。色のある断面が線として、かろうじて椅子としての骨格をつくりあげている。無色と色との不思議な取り合わせ。
展覧会では、実物のほかに、緑の中でガラスの椅子をとらえた写真がある。遠くから眺めた際は、一瞬、ただの公園にしか見えなかったが、近づいて見てみると、有色の断面による椅子の骨格が見えてくる。それは半存在のようで、椅子をまさに空間に浮遊させることに成功していた。機能性や実用性という檻の中にいる家具=ものを解放させる革命といってもいいすぎではないような感覚を覚えた。