9/11あの日私に起きた事③
2001年9月11日
~あの日、バンクーバーで~ その3
午後、気持ちが少し落ち着いてきたので情報収集と気分転換を兼ねて街に出ることにした。
きっと私の気持ちのせいだけではない。
街は、ざわついていた。
道行く人も、平和だった昨日と比べると暗い表情で歩いているように映る。
大通りにある化粧品店に入り、昨日顔見知りになった日系の店員さんに事件について詳しい情報を聞いてみた。
彼女は意外にあっけらかんとしていて「アメリカは、間違いなく戦争を始めるだろう。あのアメリカ人がここまでされて黙っているはずがない。」と言った。
「それにしてもかわいそうなのが衝突した民間機の乗客で、最後の瞬間に携帯で家族に電話した人が何人もいるらしい。ホワイトハウスに突っ込むはずだった飛行機は、乗客とパイロットで何とかそれを阻止したらしいわ。」
そう言いよると、彼女は何ともやり切れないと言う表情を浮かべ、その場を去った。
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暗い気分で外に出ると、街角のテレビに人々が集まっている。
一緒になって覗いていると、貿易センタービルに民間機が突っ込んでいくシーンが目に入ってきた。
その時の私の気持ち…。
情報として理解していたつもりだったが実際にその生々しい姿を目の当たりにして、両の目にじわりと涙が浮かんできた。
…あのビルには、一体何人の人々がいたのだろう。
大都会のど真ん中で起きた悪夢。
オフィスでいつものようにコーヒーを飲みそれぞれの仕事と戦っていた人々は、一瞬にして地獄に放り出されたのだ。
祈る暇もなかっただろう。
祈りながら息絶えた人も多くいただろう。
2年前に目にしたニューヨークの景色。
もう二度と同じ姿で見ることができないのだ。
とても辛かった。
私の後ろでテレビ画面を食い入るように観ていた白人女性も、嗚咽をこらえていた。
友達も、涙こそ流していなかったが私と目を合わせると黙ったままうつむいてしまった。
街中に大きな見出しを掲げ、まるで号外を配るように新聞が売られていた。
恐らくニューヨーク行きの飛行機から降りたのであろう人々が暗い顔で街を行き交い、道沿いのホテルのロビーには部屋が取れなかった人々が何人も毛布にくるまって座り込んでいた。
皆「これから私たちは…世の中はどうなってしまうのだろう…。」と言う不安の中にいた。
[仕方ない。今はもうどうにもならない。]
何度もそう、自分に言い聞かせた。
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結局、私たちが日本に帰り着くことができたのはそれから5日過ぎた、9月17日月曜日(日本時間で9月18日火曜日の夜)だった。
一度取り替えたエアカナダチケットも結局その予定日には飛ばず、再度並び直し新しいチケットに取り替えたのだ。
二度目にエアカナダのオフィス行った時には、カウンターの後ろのシャッターが私たちの後でガラガラと閉まった。
暴動防止だろうか…一度目に来店した時よりも切迫感を感じた。
ホテルは、フロントのおじさんのお陰で最後まで同じ部屋で過ごすことが出来た。
お金はクレジットカード決済だったので何とかなったが、帰国後の請求が怖いなぁ…と働く女性として背筋がゾワゾワしたのを覚えている。
カナダ滞在日数は増えたが観光したり買い物したりする気分にはならず、ホテルの近くのギリシャ料理のお店とJCBプラザに入り浸ってしまった。
JCBプラザのお姉さん達には本当にお世話になったので、帰国する前日にはお礼お菓子を渡し帰国後改めてお礼メールをした。
帰国当日は、空港のチェックインにとても時間がかかるとの噂があったので、朝イチのバスで空港に向かう。9月のバンクーバーは日本の10月後半位の気候で、風が冷たく感じたのを覚えている。
そんな寒風吹き荒ぶバンクーバー空港では…とにかくひたすら並んだ。
建物の中に入りきれない乗客の行列が、外に長く長く続く。およそ30m(もっとかも)
空港スタッフから配られた毛布を羽織りながらの待ち時間は、テロの被害にあった街の人々のことを思えば大した事は無いはずだが、それでも充分辛かった。
国内線国際線ともに満席の中、空港のスタッフは並ぶ客に温かいコーヒーを配りマフィンを配り、と懸命に人々を捌く。
温かいコーヒーがとても有り難かった。
そしてその様子をカナダのテレビ局が取材をし、乗客の何人かがそれに答えている。
日本人の中年男性もデジタルカメラを片手にその様子を(おそらく動画として)自分の現場報告ナレーションも交えつつ収めていた。
その時、私は自分の体験を文章として残しておくことを決めたのだ。
21世紀の初め、これからおそらく怒るであろう戦争のきっかけになった事件。
その現場ではないが、偶然にその時隣国であるカナダにいたと言う事実。
ある意味、この事件に間接的にとは言え関わったと言うことを、記録に残しておこうと思ったのだ。
そして無事チェックインし搭乗。
帰りの飛行機では疲れのあまり爆睡し何も覚えていない。気づいたら日本に着いていた。
成田空港に到着し少し湿気のある日本の空気を感じた時、思わず泣いてしまった。
日本に帰れて、本当に良かった…
遠い国、いつもと違う土地、
見知らぬ場所で起きた恐ろしい出来事。
ツアーでは無くフリー旅行。
拙い英語で何とか乗り切った自分を褒めてあげたいと、真剣に思った。
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…そして帰国後、事件から11日が経とうとしている。
帰国した日本で感じた事は、やはり日本の(ほとんどの)人々にとって、今回の事件は「対岸の火事」と言う印象しかないと言う事実だ。
しかし先日小泉首相は地域を限定しながらも、自衛隊の派遣を決めた。
戦艦キティーホークは出航し、ブッシュ大統領はアメリカ国民に対し開戦宣言とも取れる表明を行った。
歴史が動いていることを肌で感じる。
今、これからどういう形でこの国が、歴史が、世界が、どう動いていくのかを…できる限り冷静に見つめていきたいと思う。
2001年9月22日東京にて
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以上が、26歳の私がカナダで感じた事です。
帰国後一気に書いたので文章にまとまりがありません、どうぞご容赦ください。
カナダとニューヨークは陸続きの隣国。
アメリカ同時多発テロは酷く臨場感のある
まさに自分事でした。
しかし日本は、ニューヨークから遠い。
そして島国であるがゆえ「所詮は他人事」という雰囲気。
あまりにギャップがあり過ぎて、帰国後正直引きました。
…今も様々な国でテロや戦争は続いています。
交通網が発達し、こんなに国と国との距離が近くなった今、もはや他国とは言え戦争もテロも、他人事では無い。
[いつ自分が戦争に巻き込まれてしまうかなんて、誰にも分からないのだ。]
そう肝に銘じ、23年経った今も、いざという時に備え語学力や体力、そして気力を鍛えるべく毎日を過ごしております。(特に英語。英語力マジ大事!)
この手記を読んで、一人でも多くの方がこれらの出来事を自分事と感じ必要な準備をして下さる事を望み、この記事を終えたいと思います。
長文お読み頂きありがとうございました!
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