⭐︎2024年1月16日のこと 日々のこと事始め、コロナ禍の頃、Twitter、レコードなど
今年初の日々のこと。この1~20の文字の打たれてある山下陽光式メルマガフォーマットだと、音楽みたいにテンポよく文章が出てくるから、不思議だ。文章を書くのが苦手だけれど、カタカタと楽器の鍵盤を叩くようにキーボードを叩く♩♩♬♬♪・・・
初めて山下さんのメルマガを読んだときは、なぜ山下さんの文章の冒頭にいつも数字が並んでいるのか「意味」が分からなかった。でも購読中に、読者は、日々のことを20個書いて送くるか数百円の購読料を払ってほしい、という呼びかけがあり、そこで日々のことの書き方のレクチャーもあって、初めて数字の意味を理解した。
そして、購読料を払うのは簡単だから、簡単でない時間と能力のかかる方をわたしは選んだ。それがこのフォーマットを使い日々のことを書くことの始まりだった。もうあれから3年以上も経つ。
朝日新聞でコロナ禍を振り返るという特集の記事をスクラップしているけれど、あの時期に書いていた「日々のこと」は、コロナのことを振り返る個人史として、今となっては貴重な記録となっている。日記が毎日続いたのは、人生で唯一、あの時期だけだった。
そういえば、山下さんのメルマガを購読するようになったきっかけも、マッパジこと松本哉さんのオンラインシンポジウムに山下さんが出演されてからなので、コロナ禍前期・2020年春のことだ。
イギリスから参戦したプレイディみか子さんと山下さんとのやりとりが面白く、言葉がグサグサ刺さりまくった。あのコロナ禍前期のステイホームの時期は、一人暮らしのわたしにとって、オンラインが社交場だったし、不安解消のケアの場でもあったと思う。とにかく家からでも経験できることは積極的に参加していた。
意識的にコロナ禍の「今」を記録しておこうという思いも強かった。当時、仲間たちと毎月、オンラインで8ミリフィルムや記憶の話をしていた。その中でよく話題に上がったのは、コロナ禍の「今」を後で振り返ったときにどう思うか、日記や記録の意義などだった。あの頃はまだAHA!の「わたしは思い出す」の展示や書籍化の企画すら立ち上がる前だったと思う。
他には、コロナ禍で会えなくなった友人とツイキャスで実験ラジオ番組ごっこをして遊ぶこともしていた。「М家の押し入れ宝箱」というタイトルで、友人と友人の母とご子息から、家にあるモノ、たとえば「孫の手」とか「茶碗」とか「靴」とか「昔描いた絵」とかを1つ上げてもらって、その「モノ語り」を聞きまくるというインタビューシリーズだった。結果的に「モノ」を通して、そのひとの記憶や、家族の物語をひきだせたことと、友人同士のおしゃべりなのだけれど、第三者に聴かれているという意識がいい具合に作用して会話が広がったり、顔を見ないで話すことの阿吽の難しさなどを感じられたりといい経験となった。
日々のことの日記や実験ラジオの存在が、あの時期の記憶を補強している。
先日、読書会で参加者の方が、『3年日記』の空欄の部分を記憶を思い出しながら振り返って埋めている、と話されていた。なるほど、「思い出し日記」というのもあっていいんだな。コロナ期のクロニクルを時系列で記録して残そうと思い、ウキペディアで「コロナウイルス感染症」の年表をプリントアウトした。それをノートの左側に貼り、右側の空欄には呼応する形で個人的な記録を書き込んでいき、社会の大きな流れと超個人的な出来事をクロスさせてみることにした。手帳をみたり日々のことを読み返したり、頭をひねって思い出し、現在作成中だ
Xが収益化システムを取り入れてからひどすぎる。インプレッションが多くなると小銭が入るからか、松本人志氏の話題のみならず、石川県地震の情報も誤情報や刺激的な中傷の話までが増え、それをまたコピペするひとが、日本人だけでなく外国人の間でも出てきてカオスの無法地帯となっている。
とくに酷かったのが、東日本大震災の津波の映像を石川県の津波の映像だと言って拡散させているひとたち。外国籍のひとだから、勘違いしているのかと思ったけれど、どうも故意にインプレッションを増やすためにしているようだ。災害や事故が小銭稼ぎのために消費されるトピックになっている。イーロンマスクよ、それでいいのか。
2011年の東日本大震災、数か月前に、わたしはTwitterをメインとしたメディアリテラシーの成人向け講座を企画し、ファシリテーターをしていたから、Twitterには思い入れがあった。講座でも最後の締めのことばでて、「Twitterは災害時にこそ活躍するはずである」と予言のようなことを話していて、まさに東日本大震災のときにその通りとなった。それまでタブーだったSNSに行政が、公式の情報を流すようになったことには胸を熱くしていた。
東日本大震災で帰宅困難者になったわたしは、Twitterを通して避難所情報を得たり、知らないひとと情報を交換したりできた。もちろん、今回同様「井戸水に毒を入れる」的な酷いデマを流すひともいたけれど、わたしは当時、Twitterの情報にかなり助けてもらっていた。それが、今回は・・・・
そろそろXを辞めるときが来たのかも知れない。浜野謙太さんも、さらばイーロン、という言葉を残して、かっこよく年末にXから去って行ったし。ひとの悪意の垂れ流しや小銭稼ぎのカモにさらされることももうこれ以上辛いし・・・
最近、部屋にレコードコーナーを作り、年末に買った松本隆トレビュートアルバム「風街であいましょう」を聞いている。ハナレグミの鼻にかかる声とアナログ音がマッチしてかなりエモい。音の良しあしはよくわからないけれど、共感覚でいうと、レコードのアナログ的な音はトンガってなくて、丸く感じる。
レコードには片面3曲しか入っていないので、終わるたびにレコードをひっくり返したり、針を落としにいったり、ほこりがついたら拭き取ったりと手間がかかり面倒だ。でも、こんな些細なことに価値観が揺さぶられ始めている。
レコードを聴くようになって、音楽ってほんと、時間芸術なんだな、と感じるようになった。コロナ禍前期、2020年5月に目白のおとめ公園のベンチで、リモートワークをサボって池を観ながら『モモ』を読んでいたことが懐かしい。
「ちゃんと心臓が動いているのに、時間を感じとれない心の人がいる」とは、まさにわたしかも知れぬ。ふたたび「時間」が今年のテーマになりそうな予感。時は金なり。
スマホの外側で冒険がしたいぞなもし。