5月1日 

たんちゃんを撫でて眺めるたび、こんなにも静かな存在と暮らしている、同じ家の中にいるんだと、毎回新鮮な驚きを与えられる。

大抵、頭の中は常にことばに溢れていて、どこかで見た、聞いた、誰かの口から発された、特にそうした自分の外側のノイズみたいなことばが頭の中で飛び交っている時、たんちゃんはことばを残さないので、どんどん頭の中で存在が小さくなってしまっているのだと思った。なんだか悲しくなった。

瞑想をして、自分のおなかの中心に意識を集めるときも同じような静けさを感じる。最近、意識が外に漏れすぎていたのかもしれない。身体が溌剌としないのもそのせいか。わかっただけでも少し内側に力が戻ってきた感じがある。

先のイベントのイメージを作ってたのしい感覚も戻ってきた。コラージュのようなこと、色々なところから色々なものを引っ張ってきて、あたらしいものが見えることがたのしい。

お茶の組み合わせを考えて淹れるのも、同じことだと思う。海辺で石をひろって組合せるのも。素材が繊細だと、その分、閉じるというかぐっとその中に入る感じがある。iPhoneの中の写真を切ったり、自分の描いたものはもっと開いてて軽い。たぶん石は写真と内包している時間が違うからもっている情報量も断然多い。その分、目だけでなく、他の感覚も向けていかねば入ってこない。どちらも異なるたのしさや心地よさがあると思った。

さくさく直感的に組合せるのも好きだし、身体ごとそのなかに入って時間軸から抜け出てしまうようなのも好き。

夕飯を食べながら、目標とか目的を目指すことを降りてたのしむ、という話をする。そのほうがプロセス自体を楽しめ、いま、ここ感が強まる。何かを目指すというのは常に不足や欠乏を伴う。料理が、上手な人ってこのプロセスを楽しんでできる人が多いのではないかなあと思った。はやく作りたいと思って作ると、そういう味になる。

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