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【COLUMN】mergeする液体
先日、河野哲也さんのインタビュー(「談 vol.126 液体のリズム、新しい始まりの絶えざる反復としての」)を読んでいたら、身体は「液体」だという表現をされていて、思い出すことがあった。
「液体」というと、私はお茶が好きだ。味や効能はもちろん、ポットからカップへ注ぐときの流れ、様々な色合い、その液体としての存在に神秘的なものを感じていることに気がついた。
「液体」の中に、植物から滲み出たものが混じり合っていて、それが私の身体に入って、口を、喉を、食道を湿らせながら胃や腸に染み渡っていく。色以外は水と何ら変わりなく見えるその「液体」が目に見えない様々なものを含んでいるのが不思議だ。
また、猫は「液体」だという学者がいたけれど、たしかにそうかもしれない。猫と暮らして3年近くが経とうとしているけれど、伸びたり縮んだり、こんなにも様々な形を見せてくれるとは思わなかった。
そして、抱き抱えたり、膝に乗せているときにその液体感は増す。彼女は普段抱き抱えられることをあまり好まないけれど、眠気に抗えないときは、身体の全てを人の腕に任せてくる。その重みやとろみは私と猫との境界を曖昧にする。
私は「液体」的なるものを好んでるようだ。
混合する、という意味のmergeの語源は、ラテン語のmergo(水に浸す)らしい。また、出現する、という意味のemergeはex-(外へ出る)+mergoで水に浸されていたものが外へ出てくる様子からできている。
土から出現してもよかったものの、水から現れているということは、世界に存在するものがあらかじめ液体的に混ざり合っていることを示唆するのではないか。
また同じ液体でも、混ざりやすいもの、混ざったときに美しくなるもの、おいしくなるもの、いろいろと相性があるだろう。
人の身体が液体で、周囲と混ざり合いながら生きているとしたら、心地よく混ざり合えるものを常に求めているのではないだろうか。
私がお茶を飲んだり、猫をひざに乗せたりするとき、ホッとしたり安心したりするのは、それらが混ざり合うのに相性がいいから。混ざりやすく、一緒になっても心地よいから。
反対に、都市部の生活で人工物に囲まれ続けているとき、私の心はいつもどこか不安定で欠落感があった。ある日、自由が丘駅のホームから、遠くに山が見えたとき(見間違いでなければ)ものすごく安心したのを覚えている。
郊外で低い山がぽつぽつとある場所で生まれ育ったけれど、それまでは山を意識したことはなかった。その年に山形の月山に行ったとき、自分を取り囲む周りが全て山であることだけで、身体の緊張がゆるみ、とても楽になっていることに気がついた。あのとき私は山形の山たちと混ざり合っていたのだ。
周囲に心地よく様々に混ざり合うとき、身体は広がっていき、表面積を獲得して、安定する。反対に混ざり合うことが難しいとき、不安定になっているのではないかと思った。
なお、自然と混ざり合いたいのは個人の趣向であり、人工物とは混ざり合えないということはないと思う。その方が相性がいいという人もいるだろうし、スマートフォンはほとんど私たちの手の一部になっているときがある。身体自体が人工的なリズムに近づいていたら、それは人工物のほうにより親和性が高くなるのだろう。人工物と有機物と分けるのも正しいかわからない。
しかし、近年のキャンプやオーガニックブーム、都市部の人口流出を考えると、やはり基本的には、身体のリズムは、植物をはじめとする有機的(organic)な物質に呼応していて、それを求めているのではないかというのが今現在の思うところだ。