見出し画像

エドヴァルド・ムンクと一元論的自然哲学

エドヴァルド・ムンク(1863-1944)が生涯を通じて多くの苦しみを抱えていたことはよく知られている。幼少期から次々と家族に襲いかかってきた病気と死、成人後の複雑な恋愛関係や精神疾患など、これまで彼の芸術を理解しようとする際には、作品をその壮絶な人生にナラティヴに重ね合わせ、その時々の局面に対する心理的な共鳴として読み解くことが定番となってきた。

オスロのムンク美術館、米国マサチューセッツ州のクラーク・アート・インスティチュート、ポツダムのバルベリーニ美術館の3館の共同企画による巡回展『Edvard Munch: Trembling Earth(エドヴァルド・ムンク:震える大地)』(2024年)では、ムンクの自然画/風景画に焦点を当てることで、これまであまり論じられることのなかった側面からのアプローチが試みられている。

すべてがすべてと繋がる

《魔法の森》1919-1925年

ムンクの筆づかいは自然界のあらゆる事象を一貫して同等に扱う。《魔法の森》(上図)では嵐の寸前のような不穏な空気の風景が描かれているが、ここでは木や大地などの物質、光や風や温度といった現象、さらには不安感のような感情の動きが、渾然一体となってキャンバス上の絵の具に還元されている。手をつないで道をいそぐ母子は、そのうねるような描線で遠くの木々と呼応し、周囲の自然と同化している。

この、物質から精神的なものに至るあらゆる事象を区別せず、同質のものとして処理するムンクの筆さばきには、「すべてがすべてと繋がっている」という彼の世界観が反映されている。その世界観においては、「有機質と無機質」「物質と観念」「死者と生者」などの相反する事象の境界が流動的であり、あらゆる存在が大きな全体の一部であるとされる。このムンクの考えは、当時の社会に大きな影響力を持っていたドイツ人生物学者、エルンスト・ヘッケル(1834- 1919)の自然哲学に遡る。

ヘッケルの一元論との出会い

展覧会カタログ収録の論文(*1)によると、ムンクがヘッケルの自然哲学に触れるのは、1892年にベルリンに居を移し、ウンター・デン・リンデンの居酒屋「黒仔豚亭」に集まる芸術家たちと交流するようになってからという。そこでもヘッケルの著作は大きな関心を呼んでいた。

エルンスト・ヘッケルは、ドイツにおけるダーヴィンの進化論の推進者であり、またそれを発展させ、あらゆる生物・無生物が同じ自然法則に従い同一方向へ進化するという独自の一元論による世界観を打ちたてた人物であった。

一元論とはつまり、生物/無生物、生命/物質、精神/身体というような区別(二元論)をせず、あらゆる存在が唯一の実体からなるとする世界観であり、そこに創造主としての神は存在しない。このヘッケルの思想的立場の背景には、キリスト教の霊肉二元論あるいは形而上学的な二元論から科学を解放し、ひいては教会支配から脱却した社会を目指そうとする、大きな時代の動きがあった。(*2と3)

あらゆる存在物を一元的に捉えようとするならば、必然的に生物と無生物の間を結びつけるものが必要となるだろう。ヘッケルの理論においてその役割を担ったのが、生物と無生物の境界にあたる有機体とされる原形質(ヘッケルはこれを「モネラ」と呼ぶ)、そして無生物が生物へと変容する結晶作用のメカニズムであった。

原初的なフォルムと海のイメージ

「原形質」とは細胞の中にある粘性の透明な物質であり、細胞の微細構造が知られていなかった時代、つまり20世紀に入るまで、この原形質が生命現象の源となると一般に考えられていた。この考えはムンクにも共有されていた(*1)。

《海辺の夏の夜》1902/03年

《海辺の夏の夜》(上図)において、風景を構成する要素は波打ち振動しながら互いに繋がっているかのように流動的に描かれており、顕微鏡で見る細胞やアメーバのような原生生物がくっついたり離れたりするイメージにも重なる。このイメージは当時の顕微鏡や写真技術の発展とも無関係ではないだろう。

左:ヘッケル『生物の驚異的な形』1899〜1904年 第8図
右:ムンク《別離 II》1896年

上図左は自ら発見したクラゲをヘッケルが描いたものであるが、彼はそのクラゲの流れるような触手が亡き妻アンナ・ゼーテの美しい髪を想わせるとし、彼女の名にちなんだ学名「Desmonema annasethe」を付けている。

一方、ムンクの1896年のリトグラフ作品《別離 II》(上図右)では、女性の髪がうねりながら海岸線と一体となり、男性の胸中へと流れ込んでいる。この髪の流れるかたちはヘッケルの描くクラゲの触手とよく似ている。ムンクがヘッケルによるクラゲの図版をいつ目にしたか等の事実関係は不明であるが(発表年と制作年の時系列ではムンクの方が早い)、海、女性の髪、当該の女性へのセンチメンタルな結びつき、原初的な生物・形態が生成するイメージなど、発想に共通点があることを指摘しておきたい。

《別離》1896年

石の中にも燃えさかる生命の炎

あらゆる生物と無生物が同じ自然法則に従い同一方向へ進化する一元論的な世界を成立させるため、ヘッケルが必要としたのが、無生物が生物へと変容を遂げる「結晶」のメカニズムであった。ヘッケルは、動植物の死骸や排泄物を材料として鉱物的結晶が生成されるという認識をもとに、その逆方向の論理を導き出す。つまり生物もその原初は鉱物的結晶であり、そこから枝分かれして誕生したものであると考えた。(*2)

ムンクが結晶作用(クリスタリゼーション)の理論にいたったのは、黒仔豚亭サークルの中心人物、スウェーデン人作家のアウグスト・ストリンドベリを通じてであった。二人は1896年春にパリで頻繁に会っており、ムンクが結晶に興味をもつようになったのも同時期であるとされる。ストリンドベリは劇作家として知られているが、オカルト的な自然科学や錬金術にも傾倒しており、自らが「ダーウィンとヘッケルが適用した一元論にもとづく」とする自然科学的な著作を発表してもいた。またムンクと頻繁に親交していた1896年に書かれたエッセイ『石のため息』でストリンドベリは、結晶や岩石が生命を持つ可能性について論じている。(*1と4)

ストリンドベリ同様、ムンクもまた「無機質の鉱物からであっても結晶化のプロセスを経ることで生命が誕生する」と考えていた。そのプロセスを初めて絵に表現しようとしたのが、1894年の木炭画《我々の中に世界がある》(下図左)になる。

左:《我々の中に世界がある》1894年
右:《最も硬い石の中にも生命の炎が燃え上がる》1930年頃

この岩の亀裂からのぞく怯えた目をした青白い顔のモチーフは、その四半世紀後の《最も硬い石の中にも生命の炎が燃え上がる》(上図右)でも扱われていることから、ムンクにとって重要なテーマであったことが窺える。また同様の考えは文章としても残されている。

結晶は母の胎内に宿る子供のように生まれ、形成される -
そして生命の炎は最も硬い石の中にも生命の炎が燃え上がる -
死は新たな生命の始まり
結晶化 -
死は生命の始まり
私たちが死ぬのではなく、世界が私たちにおいて死ぬのだ -

ムンクの手稿より(1895年または1902-1903年)訳は筆者https://www.emunch.no/TRANS_HYBRIDMM_N0640.xhtml

上図のデッサン2点が、石に生命が宿る過程を擬人化によって説明したものであるのに対し、1900年代に入ってテューリンゲン地方での滞在中に描かれた絵画(下図)には、結晶化の考えがより抽象的なかたちで表出しているといえるだろう。

《テューリンゲンの森から》1904年頃

《テューリンゲンの森から》(上図)では、ピンク色の大地が切り裂かれ生々しくむき出しになっている。小道の右側の高台は、妄想や幻覚を見ているかのようにサイケデリックに渦を巻いており、脳や動脈や肉などの血の通った内臓を想起させもする。ここでは大地と肉体とが繋がっていることが示唆されているように思える。

《テューリンゲンの雪景色》1906年

雪解けの野原を描いた《テューリンゲンの雪景色》(上図)では溶けかかった雪のかたまりが肉感的なボリュームを帯びており、まるで活力を得て蠢いているかのようにも見える。ムンクは、季節とともに周囲の自然が変化していく中、そこに鉱物である大地から生命が誕生する「結晶化」のプロセスを見たのかもしれない。

「荒療治」と絵画の結晶化

実際にムンクは自然の中に身を置いて制作することを好んだ。複数の所有地に野外アトリエを設け、そこで画家の身体と絵画作品とを季節の循環にゆだねた。そこで描かれた絵画はそのまま風雨や日光などの天候条件にさらされ、時には完全に雪に覆われることもあった(下図)。

ムンクの「荒療治」 左:《太陽》1911-1913年 右:《人間の山》1928/29年

当然、絵画は物理的に大きなダメージを受けることになる。実際、ムンクの多くの絵画にはこの痕跡を確認することができる(下図)。

《太陽》1912/13年の部分。

ムンクはこのプロセスを「荒療治」と呼び、「色彩を落ち着かせて作品に生命を吹き込む」ために行なっていたというが、この行為の背景に結晶の思考があった可能性はないだろうか。つまり「画家により絵の具がのせられたキャンバス」がその物質性において朽ち果て土に還ったあかつきには、無生物であった絵画が結晶化のプロセスを経て変容し、生命を得る、という思考をそこに読み取れないだろうか。

《叫び》と《太陽》──二つの代表作をつなぐもの

現オスロ大学の講堂壁画《太陽》には、制作の過程で生まれた複数のバージョンが存在する(下図)。それらのバージョンはいずれも、海や山を含む「風景画」として描かれており、その意味において、ここにもあらゆる存在を取り込もうとする一元論的な自然理解を読み取ることが可能だろう。

《太陽》の一バージョン。1910-1913年

さらにこの考えを《叫び》にも適用したらどうであろう。真っ赤な空や青いフィヨルドが一緒に描かれた《叫び》も同じく一元論の世界観が反映された「風景画」ではないのか。

《叫び》1893年

《叫び》では人間の精神の暗く深いところから観念的なエネルギーが発せられているのに対し、《太陽》では宇宙からあらゆる生命の源となる物理的な光エネルギーが放射されている。このように比較してみると《叫び》と《太陽》は、宇宙を精神と物質の統合として理解するムンクの芸術において、完璧な対を成しているように思えてくる。


*1 「Munch: Lebenslandschaft, 2023」所収、Trine Otte Bak Nielsenによる論文「Auch im härtesten Stein lodert die Lebensflamme」。ムンクの自然哲学への接点に関する事実関係がまとめられている。
*2 奥村大介「エルンスト・ヘッケル、あるいは結晶の自然哲学 : 佐藤恵子『ヘッケルと進化の夢(ファンタジー) : 一元論、エコロジー、系統樹』合評会のために」2017年
*3 ウェブサイト「エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)」
*4 林田愛「オカルト科学とストリンドベリの生物理論」2019年

展覧会情報
Munch. Lebenslandschaft (en: Trembling Earth) 公式ページ
Museum Barberini, Potsdam
2023年11月18日〜2024年4月1日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?