『銀河の死なない子供たちへ』について

 「未来は君とともにある」という言葉について書きます。

 まず話のたたき台として、時間というものについて整理しましょう。人間にとって過去・現在・未来という時間の感覚は当然のものであるように思われます。しかしこの感覚は実は、自分がいつか死ぬという事、自分という枠組みが有限であることを自覚してはじめて感じ得るものです。自分という存在は、生誕・死没というふたつの決定的な断絶に挟まれており、前者から後者へ不可逆的に進んでいるものなのだと気づいたときにはじめて、人はこの不可逆の進行を時間と呼んで特定しうるのです。よって、自分がいつか死ぬということをまだ知らない子供は時間というものを経験することができません。彼は永遠の現在に生きているのです。

 πとマッキはともに不死であるため、自分という枠組みは自覚していながら、自身の有限性を本当には思い知るということがありません。よって彼らには過去も未来もない。ミラが言うように、人はいつか死ぬと分かった時に人間になるのなら、πとマッキはまさしく「人じゃない」のです。

 ふたりはママからペットを飼うことを禁止されています。生き物と心を通わせその死没を看取ることは、彼らにとって、有限性を疑似的に経験し、人間としての意識の開花に近付くための機会でした。ふたりを失うことを恐れるママはそれを禁じますが、マッキの言う通り、大人になっていく子供を誰もとめることはできません。

 ミラの死没はπにとって「永遠に消えない悲しみ」であり、人間になるための決定的な契機でした。マッキ編の冒頭にて、ママが気に入っていたという絵、過去・現在・未来を表すゴーギャンの絵が未来部分のみ失われており、未来に向けてママの手を離れていくπのあり様を暗示します。有限性を知るとともに人間に戻るための手段も手にしたπは、真に未来という時制を経験するに至ったのです。

 ところで、πが手にしたこの未来という経験は具体的にどのようなものでしょうか? 死は自身の決定的な終わりであり、しかもそれはいつ訪れるのかも分からないものです。極端に言えば、この世の誰しも1秒後の未来に命を失う可能性を抱えています。ゆえに未来とは恐るべきものであり、これと向き合うにはこの上ない不安が伴うのです。

 しかしだからといって、変化のない環境に身を置き未来の未知性から目を背けようとすると、今度は変わらないことへの虚しさ、まさしくママが苛まれていたあの虚しさに囚われることとなります。人間の一生とは必然的に、この不安と虚無との板挟みのうちにあるのです。では、この不安に打ち勝つ方法というものは存在するでしょうか? ここでもうひとつの時制、過去が意味を持ちます。

 人は、過去から現在に至る物語として自身を認識します。なにを大切に思い、どのようにして今ここに至ったのかという物語的な理解が、本来はまったくの未知であるはずの未来に向かって進むべき指針を与え、またこれを勇気付けます。ミラとの死別はπにとって永遠に消えない悲しみでしたが、この悲しみはそのまま永遠に消えない未来への足掛かりを意味します。ミラは星になってふたりのことを永遠に見守っている。πは、ミラが海の向こうへ行ってみたかったと言っていたからこそ、自身もまた星の海の向こうへ行きたいと望んだのでした。

 「未来は君とともにある」とはダブルミーニングです。ミラとの死別を経てπはまず、人間としての時制、未来を手にしました。そしてこれと同時に、この未来に臨むための過去=ミラをも手に入れたのです。すべての人間がそうであるように、πもまた過去を足掛かりに未来へ向かう生に身を置くことになりました。「未来は君とともにある」とは、人間として生きることを切望していたマッキからの、人間として生きるに至った同志πへの、はなむけの言葉であったのです。

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