もう後戻りできないから どうか光のなかに立っていてね
人間を太陽と月に分けるとするなら、きっとわたしは月側の人間だな。太陽の光がなければ光ることすらままならないから。
あの頃、本気でそう思っていた。
誰かに「そんなことないよ」と言って欲しかったわけじゃなくて、本心で、なんなら無邪気に、むしろほんのすこし、そう思うことが誇りにさえ思っていた節があった。わたし、自分のことよく分かってるでしょって。
そんな高校生だったわたしに、当時バイト先の仲のよかった大学生の男の先輩が「きみも、誰かにとっての太陽なんだよ」と言ってくれたことを、時折思い出す。学業と並行して自閉症の子どもらのケアをボランティアで行っていた彼らしい、明るさと強さが伴った一言だった。
そのときのことはいつだってわたしをやさしく支えてくれていた。「朝が来ない窓辺を求めているの」と椎名林檎女史が歌うように、恨みたくなるような朝が訪れてどん底に陥ったとしても、その苦しみ悲しみがいつか、なにかの道しるべになるように思えたのは、せめてものわたしなりの光の放ち方だったのかもしれない。
余裕があればなんとも思わないような一言が喉の奥に引っかかって、よっぽど鋭い人でない限り気付くことなどないようなそつない返信をしたけれど、自分には余裕のなさが浮き彫りになった返信に見えて、既読がつく前に取り消してしまった。その痕跡がますます自分を追い詰めた。
その一連をトリガーにして、無意識に闇に葬り去っていた『本当は嫌だと思っていたけれど、考えても仕方ないからなかったことにしていたアレコレ』が温泉のように噴き出してしまったのだった。嫌になるほど噴き出すのに、皮肉にもその水のあたたかさはわたしを癒しもする。誰かを想うということは、こんなにも醜くて情けなくて恥ずかしい。
誰かに話したわけでもないのに、自意識ってやつはどこまでも追いかけてくるのだから恐ろしい。みっともなさから逃れたい一心で、どうにか『すべてなかったことにできないか』と考えてみたりもするけれど、同時にわたしのなかに辛うじて残っていた健全なこころが、『幸せであろうとすることに怯えて、逃げようとしているだけだ』とも主張する。
人生を生きていくには、不幸なふりをしているほうが楽だから、わたしたち弱い人間は意思を持たなければついつい楽な方へ流されてしまう。
意思を持ち続けるために、川のようにとめどなく流れる想いのなかから、限りなく「これだけは譲れない」と思うものを持てるだけ手に持って、ちゃんと渡さなきゃ。せめて、わたしだけはわたしの感情をなかったことにしてはいけない。
「どうせ渡しても意味がない」と手っ取り早く諦めて不貞寝してしまうことは簡単だ。わたしは、彼氏が欲しかったのでも、セックスフレンドが欲しかったのでもない。どうせ別れてしまう未来が待ち構えていたとしても、わたしは今、わたしをちゃんと気にかけてくれる人に、わたし自身を渡していきたいだけなのだ。そこに光をあてたいし、その光の根源はあなたであってほしい。そうじゃなきゃ、困るのだ。
もう後戻りできない現実に打ちのめされるよりも早く、笑ってわたしを安心させたい。わたしを安心させることが、どんなにあなたにとって世界平和に繋がるのかを今すぐに知らしめたい。なんて、わがままかな。わたしにはそれだけなんだけれど。
話が全然変わるんだけど、「世界がひとつになりませんように」と言いながら、みんながひとつになる瞬間を今年も見逃してしまったのでした。
あーあ。
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