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人間関係で振りまわされている時、必要なのは自己存在感だった

何か上手くいかない、人間関係も、人生も。ADHDだ、PTSDだ、HSPだとワケわからなくなってる中でふと気づいた。私の話に「私」がいないと。

誰かに何かを伝えたいときや考え事をしているとき、主語が「私」ではなかった

「私」がいない。単純なことなのに思考を混乱させる重大な原因だった。自分の会話や思考について思いをめぐらすと、その主語がいつも自分ではなく他人だった。「私」が言いたいことや考えていることなのに、「私」は誰かのかげに隠れていた。

例えば夫とのケンカで言った一言。

「どうして(あなたは)そんなひどいことをいうの!?(私はこんなに傷ついているのに)」

言葉になっているのは「あなた=夫」が「ひどいことを言った」ということだけで、「私」がどう感じているいるのかが全く表現していない。

また、ひとりで考えるときでも、

「(夫は)あんなにひどいことを言ってきたのだから、もう私の事が嫌いなんだろう」

と、「私」がどうしたいのかということを考えることを忘れている。その結果、「もう離婚するしかない」、飛躍して「死にたい」になっていた。「死にたい」は一見「私」が主語のようで、正確には「離婚目前の状況が私を死にたい気持ちにさせている」のであって、「私は自分が死ぬことを切望している」わけではなかった。そもそも私は自殺否定派だから、死にたいと考えること自体、普通の精神状態ではなかったんだと今は思う。

もし、自分を主語にして考えるなら「私は夫が大好きだ。嫌われているのかとても不安に感じている」位になる。元の、夫を主語にした考え方と比べて、自分の気持ちがとても明確になっている。そして、夫の気持ちを勝手に妄想で作り上げずに事実だけに向き合うことができた。

自分を主語にするだけでいい

自己肯定感を高くもてと言われるけれどもどうしたら高くなるのかよく分からなかった。でも、思考や会話の主語を「私」にするだけで、自分の気持ちを第一に考えることができる。自分の気持ちを先に考えて、その次に相手の気持ちを考えると、自分の気持ちをないがしろにせず、自分の気持ちを見失わないでいることができることに気づいたのだった。

自分の気持ちを伝えるにはまた別のトレーニングが必要

自分の気持ちをしっかり認識できるようになったとして、その気持ちを相手に伝えるというのはまた違う難しさがある。

恥ずかしくて言えない、自分のプライドが高くて言えない、トラウマから返答が怖くて言い出せない、色々な理由で相手に気持ちを伝えられないこともある。でも言わなければ伝わらない。

この問題は、勝ち負けを考えず、意地を張らずに思ったことを素直に伝えることだった。

これが、自分を主語にして考えるより難しい。小さな頃から見える敵、見えない敵に立ち向かうために人に弱さや本当の自分を隠して生きてきた事が、ツンデレのツンだけの様な自分をつくりあげていた。

素直になることが恥ずかしくて怖い。これは、跳び箱が飛べなくて怖いとか、笑われるかもしれないからみんなの前での発表が怖いとかに似たような話なんだと思う。

失敗してもやってみるしかない、繰り返すことで慣れるかもしれないし、ある日突然コツをつかむかもしれない。やってみる。繰り返してみる。たまに人にアドバイスをもらってみる。そういう練習が必要なんだろうと思う。

「自己肯定感」の前に「自己存在感」

「私」を主語にすることで、「私の考えなのに私がいない」という状況を回避できる事に気づいて、とても気が楽になった。

自分が自分を愛するのは難しくても、自分が何を考え、何を感じ、何が嫌で、何が好きで、何をどうしたいと考えてるのかはわかる。「私は」「自分は」という言葉で考えたり話したりするだけで、「私」「自分」が何者であるのかがはっきりしてきて、そこに自己の存在を感じることができる。

自分がはっきりしてくると、他人の考えや、自分の想像した他人の考えと自分の考えが別であるということもはっきりしてくる。「私」を主語にすることは他人をないがしろにするようにみえるかもしれないけれど、そうではなく、自分の考えをきちんと認識した上で、他人の意見を尊重することができる。

漠然とした不安に襲われているとき、人に振り回されているなと思ったときには、「私」「自分」を主語にするのを忘れていないか確認しようと思う。

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勇者ああああ
サポートがわりに地域のおいしいものを食べて、それを教えて下さい。近くに行ったら私も食べます! ちなみに私の好きなものは岩手県の田村の梅と長崎県の角煮まんじゅうです。 コロナのせいで各地のおいしいものが消滅してしまうかもと心配しています。みんなで守ろう、おいしいもの!