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原罪論における”悪”の捉え方

「原罪と楽園追放」 1510年 ミケランジェロ・ブオナローティ作 






1.始めに

 人間は”悪”を為さねば生きていられません。人間が生きるということは罪を犯すということです。一体、生まれてから一度も”悪”を為したことのない真正なる人間が存在するでしょうか。人は皆、”悪”を所有しているのです。何も、人を殺したり、法を破ったりすることだけが”悪”ではありません。戦争や犯罪が”悪”であることは自明ですが、そのようなはっきり”悪”とわかるようなことでなくても、人は意識的にも無意識的にも他者を傷つけ、同時に他者に傷つけられています。何気ない言葉や仕草、態度が他者を害することのどれほど多いことでしょうか。自分は何もしていないと思っていても、何もしないことによって他者を傷つけることに無自覚であることのなんと罪深いことか。いえ、人と関わることにおいてだけではない。たとえ、人と接することがなくとも我々は自己の生命維持のために何かを食べ、飲み、排泄し、眠りにつきます。それもまた”悪”であります。一人の人間が生きることは必ず他の犠牲の上に成り立っています。人間は生き物を殺し、穀物を蓄え、それらを自己の健康に必要な量以上に食します。食の悦楽があります。渇きを満たす恍惚があります。排泄の快感があります。睡眠の法悦があります。世界には十分に腹を満たすことが困難であったり、きれいな水にありつけなかったり、衛生状態の悪い場所で安心して眠りにつくことができず、常に生命の危機を感じていなければならないような環境にいたりする人は探せばいくらでも見つかるでしょう。人間が相対的である以上、どのような境遇であってもいかなる人間も相対的に”悪”であり得るのであります。究極においてそれはエゴイズムの問題です。人間はどうやってもエゴイズムから完全に逃れることはできない。つまり、人間がこの世界に肉体という物質を伴って生まれてきたことそのことにおいて人間は罪を犯しているのです。がしかし、人間がエゴイズムから逃れられぬ以上、それを多少なりとも肯定しなければ生きることができません。”悪”を部分的にでも受容しないならば死を選択するしかない。このような、人間が生きるためには犯さねばならない必要悪としての「人間悪」の問題を考えた思想があります。それをキリスト教において「原罪」と言います。また、哲学者のイマヌエル・カントはそれを「根源悪」と呼びました。
ところで、私たち人間は一体どうして”悪”を”悪”だと思っているのか。人間は一体全体”悪”というものをどのように考えているのかあるいはきたのか。以下ではキリスト教神学において「原罪」というものが如何に考えられてきたのかを見ていきます。




2.主なる神の創造

 キリスト教における神は七日間で世界を創造しました。人間は六日目に神の似姿(Imago Dei)として創造されました。ここから人間は神に創られた被造物であるというキリスト教的人間観が生じます。




3.原初の罪(始原罪)

「人間の堕落のあるエデンの園」 1615年頃
ピーテル・パウル・ルーベンスとヤン・ブリューゲル作

 失楽園の物語において人類の祖であるアダムとイヴは蛇に唆されて主なる神に食してはならないと命令された善悪の樹の実を食べてしまいました。ここにおいて人類は堕落したのです。それは人間の「神のようになりたい」という欲望や情欲としての神への反逆でした。アンドレ・ヴェニン(André Wénin)という神学者によると「情欲とは、他者を享楽の目的とするために独占物としたり、他者を自分の利益を侵害する敵対者として滅尽しようとしたり、他者を欲求するものを得るための道具にしたりすることである。」その結果、人間は①アダムとイヴ(男と女)相互の関係の破綻、②人間と自然との関係の破綻、③人間と神との関係の破綻を招来し、一切を虚無化してしまいました。ここでは、神を超えようとした人間の欲望や情欲が他者性の否定となり、それが虚無をもたらしたというこの寓話は「原罪」の現象、つまり”悪”であると考えられているのです。




4.アウグスティヌス

「聖アウグスティヌス」  フィリップ・ド・シャンパーニュ作

 こうした情欲〔意志したとおりに動かされるのではない性欲〕をひどく恥じるのは当然のことだし、何かそれ自体で動いたり動かなかったりして必ずしも私たちの判断どおりにはならない肢体が「恥部」といわれるのも当然だ。こうしたことは、人間が罪を犯す前には生じなかった。

『神の国』第十四巻第十七章

 アウグスティヌスは先の失楽園の話と自身の体験を経て、人間の転倒した意志が様々な方向へ分散することで人間が情欲の奴隷となると語り、このような分裂したあり方の原因を自らに内在する罪と見做しました。また、「原罪」が生殖行為によって親から子へと継承されるとし、「原罪」と人間の性欲を結び付けました。さらに、アウグスティヌスは神を求める意志に背く『欲の快楽』『わたしの肉のよろこび』といった意志も「私」と同じ本性に由来するとし、「欲のあり方を明らかにしようとしても完全には明らかにし得ないという、自らの無知と、それによって神を完全な仕方で所有することができないという、自らの弱さ」は「原罪」に由来しすべての人間が持つあり方としました。

全ての人間は嘘つきであり、罪人であるという人間観をアウグスティヌスはこう表現しています。

 じっさいひとが自分自身に従って生きる、つまり神に従わずに人間に従って生きるなら、じつに嘘に従って生きる。人間そのものが嘘だからではない。人間の創始者であり創造者であるのは神なのだから。神はたしかに嘘の創始者、創造者ではない。そうではなく、人間は自分に従ってではなく、自分を創ってくださった方(神)に従って生きるように創られたから、つまり自分の意志ではなくその方の意志を為すように創られたからだ。そう生きるよう創られた仕方で生きないこと、これが「嘘」ということだ。

『神の国』第十四巻第四章一節

以上のことから、アウグスティヌスは人間の無知や弱さ故に嘘をついたり、肉体の快楽を求めたりして情欲に支配されることを”悪”と見做し、それらが人間の持つ「原罪」に由来すると解釈しました。




5.ペラギウス派

17世紀に描かれたペラギウスの肖像

 ペラギウス派は一般にアウグスティヌスの「原罪」思想とは異なり、「原罪」がアダムが行ったような神への「反逆と傲慢」という範例(アダムの範例)を人間が模倣することによって悪習として人間本性に根ずくと理解しました。また、人間の自由意志に依存せず外部からもたらされる働きかけとそれによって駆り立てられる「人間本性の内部に生じる非合理的熱情としての衝動」(上の二つをまとめて『罪の契機』)とに自由意志が同意することによって罪が発現するとしました。その意味では、ペラギウス派は罪とは、その原因となりうる力をもった働きかけであり、それに同意することで悪習ができるといったアダムの範例のような"悪"の支配に由来するものと考えました。




6.カンタベリーのアンセルムス

16世紀後半の聖アンセルムスの線画

 アンセルムスは、悪は善の欠如として無であり、義の欠如・不義としての罪も無であると考えました。「原罪」はアダムとイヴが本来持っていた「原義・始原的な義」が堕落によって失われた状態を意味します。アンセルムスにおいて「義」とは『直しさそれ自体のために保持される意志の直しさであ』り、『意志の直しさ』とは『意志が与えられた目的に従って、意志すべきことを意志する』こととされ、『意志すべきこと』とは究極的に『神が、人間の意志に、意志するようにと、意志するところのこと』であるとされる。つまり、アンセルムスの言う「義」とは人間に意志するように、と主なる神が取り計らったことに従って意志することであるとされます。逆に、神の意志に従わないことによって神の意志との分裂のみならず、自分自身における意志の分裂、他者との意思の分裂を引き起こすことで虚無に陥ることを”悪”と考えました。




7.ビンゲンのヒルデガルド

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの肖像画

 ヒルデガルドの著作『スキヴィアス〔道を知れ〕』の写本である『ルーペルツベルク写本』において「原罪・堕罪の核心は、被造物が自らの意志で神の座に立とうとする、あるいは神の命令に自らの意志を優先させる「高慢」、つまりは自由な意志に基づく秩序転倒にある。」とされます。これは人祖の堕罪だけではなく、アウグスティヌスの原罪思想と似た構造になっていて、このような秩序転倒を防ぐ方法として心を貧しくして意志すべきではないものを意志しないようにすることが求められています。ヒルデガルドにおいて”悪”とは神の意志に従わないどころか神を知ろうともせず(高慢と無知の怠惰)、もっぱら自分の意志に従うことであると考えられています。




8.トマス・アクィナス

トマス・アクィナス像 15世紀 カルロ・クリヴェッリ作

 トマス・アクィナスはアンセルムスの原罪理解に従い、原罪を人間本性が原義を欠如している状態であるとします。つまり、アダムの堕落によって本来あった調和(義)が破綻してしまい、『ある反秩序的な状態』であることが原罪であるとします。また、トマスはアウグスティヌスの原罪理解をも取り入れ、『原罪はたしかに質料的には欲情であるが、しかし形相的には原義の欠如である』と言います。さらにトマスは『意志的であるということが罪過の本質側面に属する』とし、アダムの意志により原罪が伝えられているとしました。これは人間の自由意志そのものが”悪”の源泉であると考えていると解釈する余地があります。以上からトマス・アクィナスは神の恩寵によって理性の元に秩序付けられている本来の人間のあり方が失われた状態を”悪”と見做しています。


9.オッカムのウィリアム

サリーにある教会のステンドグラスに描かれたオッカムのウィリアム

 オッカムのウィリアムは「原罪」を二つの観点から定義します。一つは、事実という観点から『原初的正義の喪失』。もう一つは、神の能力という観点から『永遠の生に値しないこと』。オッカムによると『被造物の恩寵』がなければ人間は救済されないとされ、それに至るまでの道徳の理論が知られています。オッカムは意志の『内面的な行為』だけがその行為の有徳ないしは悪徳を決定するとし、善い意志によって行われる行為は有徳な行為となると主張しました。さらに、オッカムは善い意志を生み出す倫理的徳には段階があるとしました。第一段階では正しい理と合致する仕方で意志すること、第二段階では逆境に屈せず、正しい理の命令に従い続けること、第三段階では意志の行為の理由が正しい理に由来するもののみであること、第四段階では『何にもまして神を愛する』ことと考えました。『何にもまして神を愛する』という意志の行為は、それが悪徳であるという仕方では生じ得ないため、必ず有徳な行為であり、その意志から導かれるその他の意志の行為もまた有徳となると見做します。それに対して、『神以外の他のものを愛する』という意志の行為から導かれるその他の意志の行為は悪徳の行為となると考えました。以上からオッカムは、自らの自由意志を神を愛するという行為によって神に従属させることで人間は善い行いが可能であるとし、逆に、神以外のものを愛するという行為から引き起こされる行為は”悪”であると考えていたことがわかります。




10.終わりに

 キリスト教においては如上した「原罪」を背負っている人間がいつの日にかは救済されるであろうという大規模な時間的秩序に対する意識、歴史に対する意識があります。人間の持つ”悪”は神の癒しやイエスの行為によって贖われるであろうという救済論があってこそ人間は自らの”悪”と対峙することが可能になるという意味で原罪論と救済論は不可分の関係にあるのでしょう。キリスト教的人間観における神の手によって人間は救済されるという”希望の光”があって初めて人間の持つ根源的な”悪”に目を向けることができるようになるという洞察は”悪”のみならず人間本性に対する多分に示唆的のものを含んでいるように思われます。ギリシア語で「真理」を指すアレーテイア(ἀλήθεια)の語源は隠れている状態を否定するという隠れなき状態(非秘匿性)を意味します。”悪”という暗闇が神という光に照らされて明るみに出るように。




参考文献


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