見出し画像

のこすことについて

今、死んだとしたらのこるものは何だろう、と思います。
父親が亡くなったとき、結構後悔したのは、
父親の写真をあまり撮ってなかったこと。
特に一緒に写っている写真。


旅ラボの記事で、同時に癌になった夫妻の写真を残したフォトグラファーについて書かれていました。
このフォトグラファーは夫妻の子ども。


あー私も父親の写真、のこしておけばよかったなぁって。
うちの父親の場合は、
だいぶ癌になったことにショックを受けていて、
写真を撮られるどころじゃなかったかもしれないけれど。
でも、私の手元にある病床の時の父親の写真。
抗がん剤治療で髪の毛が抜けて、潔く坊主にしたときの写真。
無理矢理笑ってる写真でした。
そんな写真でも、のこっていることが、手元にあることが嬉しかった。
だから、生きてる者のために、何かをのこすことって大切だなぁって。
これからも生き続ける誰かのために。
私は大概にクソみたいな人間だけれど、
それでも私が死んだら、
少しくらいは泣いてくれるだろうなぁという人間もいるので。
昔から写真に撮られるのが嫌いな人間だったけれど、
いつ死んでもいいように、何かをのこさなきゃなぁと思います。
昔は死んだら誰も私のことなんか思い出さなきゃいい、って思っていたけれど。
でも、それは私のエゴです。
私が死んでも、生き続ける誰かに、不必要な後悔までさせる必要はないだろうと。
私は私が大嫌いだし、これからもとりあえずしばらくは大嫌いなままだろうけれど、
(遠いいつかは自分で自分を愛せるかもしれないけれど)、
そんな私のことでも好きでいてくれる誰かのために何かをのこしていたい。
写真はその一つののこせるものなのかなと思います。


ツイッターか何かで、
人が人を忘れる順番は、
声→顔→思い出
と書かれていたけれど、
写真があるだけでもだいぶ気持ち的に違うなぁと思います。

辛いことを忘れるのは人間にとって大切な能力だけれど、
忘れることが辛いってこともあると思うので。

だから、いつか死んだとき、
生きる誰かに何かをのこせるように。
嫌いな自分の写真も撮ってのこしていきたいなぁと思います。

いつか、この鬱々とした日常も、
気まぐれに撮った写真を見て「こんなこともあったなぁ」って笑い飛ばせますように。

いいなと思ったら応援しよう!