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人の幸せを願う人ほど、貪欲に自分の幸せをつかむべき理由

 人の幸せを願う優しい人こそ、誰よりも貪欲に自分の幸せを叶えるべきと私は思っています。

 どうしてかというと、シンプルに自分が不幸だと相手の幸せを喜べないから。

 ある程度の余裕がないと、人の幸せを祈れないんです。それができる高尚な人もいるのかもしれませんが、残念ながら私はまだ会ったことがないし、自分もそんな人間になれるとは思えない。

 どん底にいるときって、周りが憎たらしくて憎たらしくて仕方がなくなる。もちろん私の心の狭さとかも関係してるんですけれど。

 例えば、私の場合は父が亡くなって、通っていた大学院もやめることになって。その時は本当に絶望的。どんなにあがいてもお金の問題って大きくて、どうしようもなかったし、誰かに助けを求めていれば違ったのかもしれないけれど、助けを求める気力もなかった。

 それ以上に、周りの人が憎くて憎くて仕方がなかった。そんな憎い人たちに助けてなんて言えるわけもなかった。自分以外がすべて幸せに見えてしまった。そんなはずはないのにね。

「気持ちわかるよ、つらいよね、でも前を向いて頑張ろうよ」なんていう言葉を吐く両親健在の人。

 わかるわけないだろって。同じように親を亡くした経験がある人でも、ひとりひとり背景が違うんだから簡単に「わかる」なんて言えない。むしろそういう喪失体験のある人の方が安易に「わかる」って言わなかったからありがたかった。

 そういう言葉をくれる人が何人かいて、その中でも一番つらいなと思ったのが友人を自殺で亡くした同期の言葉。

 喪失体験はわかるのかもしれないけれど、やっぱり状況は違う。

 心の傷みが続く点は同じなのかもしれないけれど、その後の生活の影響は違う。

 やっぱお金の苦悩って心にダイレクトアタックしてきますよ。クリティカルヒットです。身内が死ぬってそういうことです。亡くなったこともつらいのに、その後の生活にも響いて、しかも亡くなったにも関わらず自分はお金のことに固執してるのか、って。

 今となっては、そりゃ私は生きてるんだし固執するよねって思えるけれど、前はお金のことを考える自分が汚らわしいとも思ったり。

 まあ、話を戻して、自殺は自殺で私にはわからない痛みがあるし、そこをわかろうとは思わないから、私のこともわからないでほしい。自分自身ですら折り合いのつかないこの感情を簡単に「わかる」だなんて言わないでほしい。私ですらわからないのに。

 善意が人を傷つけるってこういうことなんだろうなと思います。

 悪気はなくて、自分のことを思って言ってくれてる。だからこそその言葉を恨めしいと思う自分が嫌になって自己嫌悪のスパイラル。

 今となってはこんな憎悪も馬鹿らしいなと思えるけれど。

 でも、そこで痛感したのは、やはり自分が幸せじゃないと人の幸せなんて到底祈れないんだなぁということ。下手したら憎んでしまう。でも憎んで恨めしく思う自分が嫌になっていく。どんどん気持ちがふさぎ込んで、自分のダメさが目に付いていく。

 私は基本的に自分の興味のないもの以外には冷たい人間だけれど、やっぱりどん底になって人を恨む自分と直面したらかなりきつかった。

 となると、人の幸せを願える人は猶更きついんだろうなと思う。だからこそ、人の幸せを願える優しい人は、こんなきつい気持ちを持たなくていいように、自分の幸せをまず一番に考えてほしい。

 自分が幸せになって余裕が生まれたら、きっと人の幸せの手伝いができるはず。まずは自分が幸せになってからでいいよ、って思う。

 誰かの足を踏んでまで幸せになるべきとは思わないけれど、やっぱり自分が一番幸せになるのが、結果的に周りも幸せにできるし、効率がいいんだろうな。

 私も今はとても身勝手で自分のことしか考えてないし、いろんな人に心配も迷惑もかけているけれど、それはそれで割り切ろうと思う。

 無理して死んでしまうよりきっとそれが一番いいはず。

 誰かのために生きようとする人が、一番幸せでありますようにと今日も願います。

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