大我と小我
「私」というものについて、この国では古くから大我(たいが)と小我(しょうが)とを明確に区別してきました。
小我は物理的・精神的・意識的な私として、対象として捉えることができるのに対して、「本来の自己」と位置付けられる大我は小我のように捉えることができないため、それを際立たせるための哲学が必要です。
ここでは、2400年の哲学の歴史を踏まえた西田哲学の観点から、その違いについて考えてみたいと思います。
小我とは
小我は自我とも呼ばれ、英語ではパーソナリティ(Personarity)と言います。Personarityの語源は、ギリシャの仮面劇で使われるペルソナ(Persona:仮面)というラテン語です。つまり、小我とは「仮」の姿なのです。
私たちは、時と場面に応じて仮面をつけ換え、パーソナリティを変えています。学校では生徒として、バイト先では店員としての仮面をつけて、適切に役割を担っています。
このように、「小我はいけない」ということでは決してありません。全体の目的と意義を知ることができるほど、正しく仮面を使い分け、適切に間合いを取って行動することができます。
大我とは
大我の「大」は大自然の「大」と同じように、「絶対」という意味です。「小」に対する相対的なものではありません。
例えば、大自然は自分の外にあるような、何か指をさせるようなものではありません。自分もその大自然の一役を担っているため、自己と切り離して、あれが大自然だと言えるようなものではないのです。
大我も同じように、「絶対」という意味があります。つまり、他者との比較で認識される相対的な自己が小我であるのに対して、大我は自他の区別を超えた、あるいは自他を包んだ立場であるということです。
他者の喜びを自己の喜びとし、他者の悲しみを自己の悲しみとするのは、大我の致すところなのです。
ただし、仮面を脱げと言っているのではありません。仮面をつけることで、それを適切に付け替えている「本来の自己」に気付くことができます。
小我がいけないのではなく、それに固執することが狭い価値判断を招くため、利他の心や奉仕の心が大切にされるのです。
大我の心と小我の心
「そんなことを考えていて、恥ずかしいとも思わないことを恥じる」とき、前者の恥は小我の心で、後者の恥は大我のものです。
小我の感じ方と大我の感じ方は、このように真逆となることもあるのです。
11 世紀、イギリスのレオフリック伯爵が民に重税を課そうとした際、その夫人Lady Godivaはそれを阻止しようとする。伯爵は夫人に、「もしおまえが一糸まとわぬ姿で馬に乗り、町中を廻れたなら、税を引き下げよう」と言い、夫人は領民のためにそれを実行した。
どんなにその小我が恥ずかしさを感じ、どんなにその大我のはぢざることを覚えたか。