ピアノを弾くのって何が楽しいの? 超超自己満足

(画像お借りします。ありがとうございます。)

※超超自己満足

最近空前のピアノブームが来ている(自分の中に)。それは、実家に帰省しているからだ。一人暮らしの家にはピアノを置くことができないので、ここ2年間のピアノ不足からの欲求が、帰省している今、一気に放出されているのである。たぶん。

ピアノを弾きながら、「自分はなぜピアノを弾くことに魅かれるのだろう(ダジャレではない)」と思った。今回は、自分がなぜピアノを弾くことに夢中になっているのかを、考えつつ文章にしつつ考えてみようと思う。

1.ピアノ教室に入ってから辞めるまで

小学1年から高校2年まで、たぶん何も考えずにピアノ教室に通っていた(教室に通うことが当たり前になっていた)。ピアノを習い始めようと思ったきっかけは、たぶん仲の良い友達が習っていたから。学年が上がるにつれて、何人もの友達が辞めていったけれど、私は受験生になるまで一度もピアノ教室を辞めることは考えなかった。辞める辞めないの選択を迫られる場面がなく、かつ、ただただピアノを弾くことを楽しんでいたのだと思う。たぶん。

2.一人暮らしを始めて

ピアノ教室を辞めて1年後には一人暮らしが始まった。冒頭に書いた通り、一人暮らしの家にはピアノが置けない。ピアノを弾けるのは、年に数回ある帰省の時だけだった。しかし、この状況をそれほど苦痛に思っていなかった。苦痛に思っていないことに気づいた私は、「自分にとってピアノは積極的に触れていたいものではないのだ」と思い、少し悲しくなった。悲しくなったのは、たぶん、ピアノを弾けない状況をあまりに簡単に受け入れることができてしまって、「ピアノを弾くのが好き」という自分のアイデンティティ(と思われるもの)を失ったような気分になったからだ。

3.大型帰省

こんな感じで少し気分が沈んだようなそうでないような状況の中、突如として現れたのが、今回の帰省である!! 今回の帰省はいつもとは違い、数か月に及ぶ大型帰省(大型連休という言葉があるから大型帰省という言葉があってもいいだろう)である。

どうせ数か月も続けてピアノを弾くことができる環境にいるのなら、この期間に1曲完成させてやろうというちょっとした目標ができた。練習を始めた曲は、ブラームスの『ワルツ op.39-15』だ。NHKの『2355』という番組に「とびはぜのトビー」が出てくるコーナーがあった(今もあるのか?)。このコーナーのBGMとして使われていたのが、ブラームスの『ワルツ op.39-15』である。綺麗で美しくて、水とトビーの映像に似合った、深夜に聞くのに心地良すぎる曲である(修飾が多い)。自分が何歳の時にこの曲を知ったのか覚えていないが、知った時からずっとずっと弾きたいと思っていた曲である。一言で表すと、”憧れの曲”だ。

4.憧れの曲を練習し始めた

まず、右手の練習から始めた。たどたどしいながら、憧れていたメロディーを構成する音が鳴った。全然完璧に弾けないが、頭の中にはメロディーが流れているのでちょっと気持ちいい。

そんな調子(どんな調子かあまり書いていないことには触れない)で譜面を読み進めていく。区切りのいいところまで右手を練習したら、左手を練習し、両手を合わせてみる。やっぱりたどたどしいながら、でも、片手ずつの時より一層憧れの音に近い音が鳴る。どんどん楽しくなって、気づいたら一日のほとんど(は言い過ぎ)の時間をピアノの練習に費やすようになった。

5.<ここからが本題>

こんな感じで悦に入っていたわけだが、冒頭に書いたことを思い出したい。私はピアノを弾きながら、「自分はなぜピアノを弾くことに魅かれるのだろう(ダジャレではない)」と、ふと思ったのだ。

私にとってピアノを弾くことは趣味だが、曲を弾くには努力が必要だ。これまで継続的に何かに打ち込む経験をあまりしていない私が、ピアノを弾くことに関しては努力を(練習を)継続しているのである。前見出しで書いたように、憧れの曲を弾いているという要因もあるだろうが、それだけではつまらないので他の要因も考えてみたい。

ここまでで、ピアノを弾くことに魅かれているから努力できるという論理が自分の中に成り立っていそうだが、これについても再考したい。

①視覚情報と色々

ピアノを弾くには、楽譜を見る、楽譜に沿って手を動かす、足を動かす、テンポを作って維持するなど複数のことを同時に行う必要がある。これらは、楽譜を見ることと、見ることによって受け取った情報の出力の仕方である。このようにして弾かれたピアノの音を聴く。すると、聴こえている音が見えている情報と一致(?)していることがわかる。見える情報とその出力の方法が連動し、聴こえる音がそれらと一致していることがわかると、私は気持ちいいと感じるのだと思う。

②数学的な何か

説明する文章力を持ち合わせていなかったので、例を挙げてみる。

右手の楽譜に「符点四分音符1つと八分音符1つ」、左手の楽譜に「八分音符4つ」が書かれていたとする。これを同時に弾くと、右手の符点四分音符と左手の八分音符の1つめが同時に、右手の八分音符と左手の八分音符の4つめが同時に鳴る。左手の八分音符の2、3つめは1、4つめの間を三等分で区切ったタイミングで弾かれる。



私はこれを数直線のようにイメージしている。特に等分して区切ったタイミングでかっちり拍をとって音を鳴らすのは気持ちがいい。

③自分がかっこよく思える

"ピアノを弾けるってなんかすごい"こんなイメージが私の中にはある。それはおそらく、ピアノを弾くことが趣味だと言うと、「すごいね」や「羨ましい」と言われてきた経験(とりあえずこのように返答した人がいたとしても、とりあえずの返答でポジティブな言葉が出るのは、一般的にそのようなイメージがあるからだろう)や、テレビなどで見るピアノを弾ける人はすごい人扱いされているという理解からのものだろう。かっこいい曲を自分の手で演奏しているのを俯瞰的に見て自分がかっこいいと思うのだ。

④表現したいものを自在に表現する

大学に入ってから大きく環境が変わった。より正確に言うとある団体で活動し始めてから環境が大きく変わった。それは自分の生活の仕方に影響するものだった。高校生の時より頭を使って、考えて、生きる人間になったのである。(これについては別の回でまた触れたい。)

そのある団体に所属する人がやや偏っている(大きな目で見たら多様とは言えない)ためか、活動柄もあってか、ある団体で活動を始めてからの私の周りの人はみんな常に頭を使って考えて生きているように感じる。私もそれに影響されてか、不可抗力か、高校までの時のように何も考えずお気楽に生きているのではなく、頭を使って考える人になった(と感じる)。

こんな生活をしていると頭が凝り固まってくる。そこに救世主のように登場したのが今回の大型帰省である。これが、心"で"表現する、心"を"表現する機会を私にくれた。これまでの2年間で心から溢れ出ることのできなかった何かが、ピアノを弾くという手段により一気に放出されたのである。表現する気持ちよさを久しぶりに感じ、のめり込んだのだろう。

⑤完成形をイメージできる(努力しやすい)

最近は便利なことに、ほとんどの曲はネットで検索するとピアノで弾かれた動画(音声)を見つけることができる。それを聴くことで、まだ自分で曲の完成形を生み出すことができなくても、最終形のイメージができるのである。

最終形をイメージすることができると、努力がしやすい(と私は感じる)。だから、努力するのがあまり得意ではない(だろう)自分が、こんなに(特に今回の大型帰省では)努力できる(/た)のだろう。

6.おわりに

魅かれる点や努力をしやすく感じる点の再現できる場所を見つけていきたいなと思う。
できたら帰省中に書き上げたかったこの文章は、帰省が終わってから完成しましたとさ。

たぶんこれ、後で読み返して恥ずかしくなる文章ですね。

(2021年4月8日(木)早朝5時24分くらい)

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