大森房吉と今村明恒──二人の地震学者が成そうとしたこと(テキスト)
上山明博(ノンフィクション作家)
参考図書:上山明博著『地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実』。
地震大国・日本で誕生した地震学
世界で最初に地震学が誕生したのは、地震大国・日本においてである。
のちに近代地震学の祖といわれるお雇い英国人教師ジョン・ミルンは、明治9年(1876)の来日早々、生まれて初めて地震の恐怖を体験した。
急速に文明開化を遂げる日本にあって、一瞬のうちに文明を瓦礫と化す地震こそ、近代科学が解明しなければならない焦眉の課題である。
そう確信したミルンは明治13年(1880)4月26日、神田錦町にあった東京大学講堂で日本地震学会の創立総会を開催。この日、発起人で同会の副会長に選出されたミルンは数百人の会員を前に壇上に立ち、日本地震学会の研究テーマは地震予知にあると創立の主旨を述べている。
そのミルンに師事し、彼が帰英した後、地震学を主導したのが大森房吉であり、今村明恒である。
明治30年(1897)、大森房吉は2年間の欧州留学を終えて帰朝し、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)地震学教室の主任教授に就任。
大森が最初に取り組んだテーマは、地震という〝なまず〟のように掴みどころのない自然現象を科学的に捉え、解析する糸口を見付けることにあった。
それを実現するために大森は世界最高水準の実用的な地震計の開発を目指し、明治31年(1898)、のちに「大森式地震計」と呼ばれる高感度地震計を製作し、本郷の地震学教室に設置。その性能の高さはすぐに実証される。
翌32年(1899)9月11日、東京から遥か4,000キロメートル離れたアラスカ・ヤクタット湾沖で起きた大地震(アラスカ地震)の搖れを細大漏らさず正確に捉えることに成功。
わけてもこれまで確認することができなかった初期微動のP波や主要動のS波の搖れの特性を地震波として詳細に描出し、世界を驚かせた。
さらに大森は、大森式地震計で得た多くの地震波のデータをもとに、初期微動継続時間(P波の到達後、S波が到達するまでの時間)から震源距離(地震計から震源までの距離)」を導く「大森公式」を発表するなど、今日の地震学の基礎理論を次々と築いていった。
かくて、世界を代表する地震学者としての地歩を固めた大森は、地震学者が取り組むべき研究に取りかかる。その研究とは地震予知にほかならない。
大森の地震予知と、今村の防災対策
大森は渉猟した古文書の記述から過去に起きた大地震の場所を日本地図に落としこみ、地震が頻発する地域とそうでない地域があることを発見。地震が多発する地域を「地震帯」と名付けた。
さらに彼は、地震が起きた年を年表にして、それぞれの地震帯で起きる地震にはある一定の周期が存在することを発見。これを「地震周期説」と題して論文発表する。
こうして大森は、空間軸と時間軸という異なる次元の膨大なデータを組み合わせて、地震予知に繋げようとしたのである。
「地震帯」と「地震周期」の発見は、地震予知に向けた大きな一歩となった。
それらの研究成果を多くの国民に知らせ、防災に役立ててこそ地震学の社会的な意義がある。そう考えたのは、大森房吉教授の下で助教授の職責を担う今村明恒である。
今村は大森の「地震帯」と「地震周期」の考えに基づいて独自に調査した結果を論稿にまとめ、明治38年(1905)9月発行の雑誌『太陽』に発表した。
そのなかで今村は、東京で大地震が起きる平均周期は百年だが、慶安2年(1649)の地震から次の元禄16年(1703)の地震までの間隔は54年と短く、最後に起きた安政2年(1855)の地震からすでに50年が経過していることから、東京にいつ大地震が起きても不思議ではないと結論した。
次いで今村は、東京に大地震が起きた際の被害想定を算出。東京の大半が火災によって焼失し、死者は10万ないし20万人、被害総額は数億円(現在の価値で数兆円)と推定した。
そのうえで、損害を軽減するために重要なのは火災を起さないことであると、防災の重要性を国民に訴え警鐘を鳴らしたのである。
今村の主張は、明治39年1月16日発行の『東京二六新聞』の一面を使って大きく取り上げられ、「今村博士の説き出(いだ)せる大地震襲来説 東京市大罹災の予言」の見出しを付けてセンセーショナルに紹介された。
すると忽ち東京市中は蜂の巣を突いたような騒動となり、家財道具を抱えて近くの公園に避難する者や、東京を脱出して親戚の家に身を寄せる者などが続出した。
防災対策の重要性を訴えるという今村の本来の主旨を離れて、明日大地震が起きても不思議ではないとの地震予知の不確かな可能性のみが新聞紙上で強調され、東京市民の不安をいたずらに煽る結果を招いたのであった。
この地震騒動にいち早く対応したのは大森であった。大森は動搖する人心を沈静化するために、一連の騒動の火種となった今村の論稿を浮説と断じる記事を、雑誌『太陽』(明治39年3月発行)に寄稿。
この大森の迅速な対応策が功を奏し、東京大地震襲来騒動は一応の沈静化をみる。すると世間は今村に対して「ほら吹き今村」と嘲笑し、揶揄したのだった。
それ以降、今村は大森への対抗意識を次第に隠すことがなくなり、両者の言動はしばしば対立したのである。
関東大震災が起きたとき、二人は……
このころ大森の研究課題は、次に東京に大地震が起きるとすればそれは何処か。その震源を特定することにあった。
大森は、東京周辺に地震が頻発する地域があることを発見。北から順に東北太平洋沖、利根川流域、房総半島沿岸、相模湾沖の4つの地震帯の存在を突き止める。
その中のひとつ「相模湾沖地震帯」は過去長年に渡って大地震が起きてはおらず、次に東京周辺に大地震が起きるとすれば、震源は相模湾沖であろうと予測した。
大森はそれを論稿にまとめ、大正11年5月発行の雑誌『学芸』に発表する。今日の視点から歷史を概観すると、このとき大森が次の地震として予測した相模湾沖は、16ヶ月後(大正12年9月1日)に起きる関東大震災の震源域と完全に符合し、驚かされる。
しかし、大森が雑誌に発表したこの論稿をマスメディアは等閑した。
つまり、当時のメディアは、今村が『太陽』に発表した論稿に注目し、防災対策の重要性を訴えるという今村の意を離れて地震の恐怖を煽る扇動記事を大きく掲載し、東京市中に騒動を巻き起こした。それとは対照的に、大森が『学芸』に発表した、東京に次に大地震が起きるとすれば震源は相模湾沖であろうとする、地震予知に関する注目すべき論稿は取り上げられることはなかった。
そのため、大森の地震予知に関する最新の研究成果は、多くの国民に知らされることはなかったのである。その意味で、メディアの責任は極めて重いと言わねばならない。
大正12年7月10日、大森はオーストラリアで開催される第2回汎太平洋学術会議の副団長として横浜港を出航し、オーストラリア大陸に向かった。そして、運命の時を向かえるのである。
9月1日午前11時58分、東京の南西約80キロメートルの相模湾沖、深さ23キロメートルを震源とする関東大地震が起きた。東京の大半が焦土と化し、焼け跡から確認された死者は10万5,000人に上り、明治以降最悪の大震災となった。
災禍の只中で多くの国民は、震災前に関東大震災の被害をほぼ正確に言い当てた今村に対して、「関東大震災を予知した地震学者」と褒めそやし、称揚した。
他方、大森に対しては、「地震の神様と言われる大森が、こんな大きな地震を知らないはずはない。日本に大地震が来ることを知って、逃げ出したに違いない」と口々に非難し、譴責した。
そのころ大森は、これまでの心労が祟ったのかオーストラリアからの帰国の途中、病に倒れた。
関東大震災の発生からおよそ1ヶ月後の大正12年10月4日、大森を乗せた船が横浜港に着岸すると、船室のベッドに横たわる大森の枕辺にまっ先に駆けつけたのは今村であった。
このとき大森は今村の顔を見詰め、「今度の震災につき自分は重大な責任を感じて居る。譴責されても仕方はない」と語った、と今村はその日の日記に記している。
それは、大地震騒動を沈静化するために今村の言説を否定してきたことを詫びる言葉であるとともに、国民への深い謝罪の意を表しているといえるだろう。
地震学者としての使命と責任とは
関東大震災の発生から僅か2ヶ月後の大正12年11月8日、大森は病没する。
その後今村は、大森の後を継いで東京帝国大学地震学教授に就任し、関東大震災の歴史的事実を後世に残すために膨大な調査報告書をまとめた。
その仕事が一段落すると、関東大震災をめぐる回想録『地震の征服』を上梓。そのなかで今村はこれまでの大森との対立を振り返り、「疑いもなく先生は民心鎮静の犠牲になられた」と感慨を込めて述懐する。
今日、政府の地震調査委員会は大地震の発生確率を随時更新し、南海トラフ地震の発生確率は40年以内に90パーセントであると公表。
また、南海地域に発生する地震の平均周期は88年であり、前回の地震から約80年が経過していることから、この地域にいつ巨大地震が起きても不思議ではないと注意を呼びかけている。
なお、この地震発生確率は、100年以上前に大森が発表した「地震帯」や「地震周期」に起因し、今日の地震予知の研究の根幹を成している。
巨大地震から国民の命と財産を守るために、大森と今村は地震学の研究に誠実に向き合い、地震予知の発表をめぐって二人はときに激しく対立した。その物語は、100年前の過去の出来事ではなく、近い将来必ずやって来る私たちの現実でもある。
関東大震災に至る大森と今村の二人の地震学者の闘いは、今日の私たちに多くの教訓と示唆を与えているように思われる。
蓋(けだ)し私たちは、二人の対立から、二人の言動の違いを見るのではなく、二人がともに命を賭して果たそうとした地震学者としての使命と責任の重さにこそ、目を向ける必要があるのではないだろうか。
(『歴史街道:関東大震災100周年特集』PHP研究所、2023年10月号より)