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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと8

実家には週一ペースで通っています。一人暮らしの父に少し楽をしてもらおうと、週末の夕飯は妹と私が用意していますが、たわいないおしゃべりをする時間でもあります。基本土曜日は妹、日曜日は私です。ある夜、デザートのリンゴを切っていたら、「チンパンジーの餌みたいだな」と言われ、ちょっとムッとしました。私のリンゴの切り方は、くるくる皮をむくのではなくて、サクサクと六等分してから、ひとかけずつするっと皮をむきます。この方が、面がきれいだし、早いからです。どうせ、雑な切り方ですよ、と知らん顔していたのですが、父に悪気があったわけでなく、私のリンゴの切り方から古い記憶が蘇ったようです。

尾崎さんの長女・一枝さんは父の一歳上、長男の鮎雄さんは一歳下で、二人とも幼稚園は三年保育、つまり四歳から六歳までを幼稚園で過ごしています。通っていたのは上野動物園前にあった幼稚園。一枝さんは年長さんで、鮎雄さんは年少さんの時、父は幼稚園に通っていなかったけれど、年長さんの一年だけ寛永寺幼稚園に行くことは決まっていました。

ある日、松枝さんが二人を迎えに行く、というので、父は一緒にくっついて行ったのですが、松枝さんの勘違いか、まだお迎えの時間には間がありました。すると松枝さんが、「まアちゃん、動物園に行こう」と父を誘い、動物園で時間つぶしをすることになったのです。「その時に、チンパンジー舎を見ていたんだけど、ちょうどお昼のショーだったのかな、飼育員がリンゴを切ってたんだ。その切り方みたいなんだ。チンパンジーは利口で、自分で小さな椅子とテーブルを運んできて、お行儀よく待っててね、飼育員が切ったリンゴやバナナをナイフやフォークを使ったり、手でつかんで食べるんだよ。おばさんと二人で、可愛いねえ、と見とれてたんだ」。

その経験が楽しかったらしく(いや、雨の日はお休みになると知ったからかな、と父)、家に帰るなり、一枝ちゃんや鮎雄ちゃんと同じ幼稚園に行きたい、と願い出たところ、母親の久子さんにひどく叱られたそうです。家から至近の寛永寺幼稚園は、教育ママの久子さんのお眼鏡にかなった名門幼稚園でしたから。今も寛永寺の境内にあり、感じのいい園舎と遊具が印象的です。

結果的に父は寛永寺幼稚園が気に入って、今も懐かしく思い出します。「寛永寺は夏期学校を開いていて、卒園生が通えるんだよ。夏休みに十日間ぐらいかな。兄貴と一緒に通って、本堂で習字をしたり、般若心経を唱えたり、説法を聞いたり、本堂や境内の掃除をしたりね。あの経験がよかったよね。お寺の空間もいいし、感謝する心を自然と学べた気がする」と、わんぱく坊主の〝まアちゃん〟も、お寺の夏期学校ではお行儀よく過ごしたのでした。

父の上野動物園の思い出は、尽きません。「百回は行ったかな」と以前に聞いたことがあって密かに疑っていたのですが、改めて聞くと「せいぜい三十回か四十回かな、でも百回くらい行ったような感覚があるんだ」と笑います。界隈の子どもたちにとっては、当たり前にある遊び場のひとつ。父が通った小学校は今の台東区立忍岡小学校で、上野桜木町とは不忍池を挟んだ向こうにあり、二十分くらいかけて登校していましたが、一年生の時の遠足は、なんと目と鼻の先の上野動物園。「学校に行くより動物園のほうが近いんだよね(笑)」。

動物園は無料ではありません。だから近所の子どもたちは知恵を働かせて、時にはちゃっかり入り込んでいました。たとえば、大人にくっついて入る、なりすまし作戦。「大人と一緒だと子どもは無料だから、僕が、いつもつるんでいた尾崎さんの鮎雄ちゃんと尾崎さんちのお隣の進ちゃんに指示してさ、一人で入る大人を見つけたら、それっ、と、その後ろにくっついて連れのふりして入ったんだ。あとは、入場券売り場の窓口が高いから、見えないようにかがんで入ったこともあったよ」

今年の初め、一緒に上野を散歩した時に、昔の動物園入口のところで体をかがめて実演してくれた父は、一瞬子どもに戻ったみたいに、無邪気で楽しそうでした。「きっと、切符売り場の人はわかってたろうな。子どもだから見逃してくれたと、今になって思うよ」。戦前の、鷹揚だった大人を懐かしみます。

もうひとつ、秘密の入り口から動物園に入り込む潜入作戦。動物園と美術学校(今の東京藝術大学)は隣接していて、その境目の柵が踏み潰されていたのです。父曰く、「ライオン口って呼ばれていて、そこから出入りできたんだ。正門は家からだとぐるっと回るから、助かったよ」。当時、美術学校の学生はフリーパスで動物園に入ることができたようですが、ライオン口は、動物園へのショートカットだったことから便利に使う裏口でした。美術大学では秋に文化祭があり(今の藝祭)、近所の人も見物できる機会でした。「学生がつくる張りぼてが本格的ですごいんだ」と、藝祭名物の藝祭神輿は戦前からあり、子ども心に感心していた父ですが、どうもその時に学生が教えてくれたらしく、その後何度か忍び込んだようです。そういえば家の近所の小石川植物園も、近所の子どもたちは塀を乗り越えて出入りしていたと、同世代の人から聞いたことがあります。大人の目を盗んでの小さな冒険、きっといつの時代も変わらない子どもたちの特権です(ところでライオン口は、平成の最初の頃まであったようです)。

遠方から訪ねてきた親戚を上野動物園に案内するのも、父の役目でした。「まだ小学校一年か二年なんだけどね、なぜか僕が連れていく係なんだ。そのあと、上野駅や東京駅まで送って、切符も買ってあげたよ」。父と年の離れた従姉の世都子さんは、そのことを懐かしく憶えていて、父が東京駅の切符売り場で、自分より高い窓口に爪先立って「沼津一枚」と切符を買ってくれたことを一つ話にしていました。また、上野駅公園口で見送る時には、父は世都子さんに切符を買って手渡すと「ホームの一番前で乗ってね」と言い残し、ぐるっと土手の方に走って行って、手を振って電車を見送ってくれた、と。忘れがたい、微笑ましい姿だったのでしょう。

ところで、動物園通な父のお気に入りはなんだったのでしょう。「なにしろ何度も行っているから、わからないなあ」と言いながら、「そうだな、まずは入り口にクジャクがいてね」と始まります。今日は何羽、羽を広げているか、予想して行くんだ。一羽の時も、何羽も広げている時もある。それから、象。飼育員が象に乗って園内を回るショーは、飼育員が乗りやすいように象が前足を折るんだ。いい信頼関係なんだよ。アシカやオットセイも動きがユーモラスで好きだったなあ。地味だけど、アルマジロも、鎧を着たみたいで面白い動物だろ。キリンはね、ちょうど長太郎と高子がやってきた頃だったなあ。忘れちゃいけない、お猿の山には、家から芋やニンジンを切って持参して、餌やりしてたよ……。

「そういえば、雌の黒豹が脱走する事件があって、とても怖かった」。それは、戦前の東京を震え上がらせた大事件でした。時は昭和十一年(一九三六)の七月二十五日。父はまだ三歳になる前です。この年は戦前の日本を揺るがす大きな事件が他に二つありました。二月の二・二六事件。陸軍青年将校たちのクーデター未遂事件です。五月には阿部定事件。これは愛人を殺し、局部を切って逃げた猟奇的な事件で、この事件をモデルにした小説や映画は数知れず。誰もが知っているこの二つの事件に並んで、黒豹脱走事件が昭和十一年の三大事件と呼ばれています。当時の新聞の見出しには「帝都の戦慄」や「密林のギャング」など、物々しいタイトルが付けられましたが、十二時間半後に美術学校あたりの暗渠で発見され、無事捕獲されました。シャム(現在のタイ)から寄贈されたばかりの黒豹が郷愁のあまり脱走したと、後には哀れを誘う記事も登場しますが、脱走時は、新聞各紙が黒豹を悪魔のごとくに書き立て、ラジオからもニュースが流れ、市井の人々を恐怖のどん底に陥れたのです。

「夜の動物園から聞こえるウォォォっていう遠吠えが、妙に薄気味悪くていやだったよ」

父のひとつ上の作家、小林信彦も子ども時代の記憶を「黒豹昭和十一年」というエッセイで語っています。脱走した黒豹への恐怖から、「自分の家の屋根の上、あるいは軒下に、黒豹が息をひそめている幻想に悩まされ、パニック状態におちいっていた」とのこと。小林信彦は東日本橋育ちで、その辺りにまで恐怖が広がっていたのですから、隣接する上野桜木町はどれほどの騒ぎだったことか。

尾崎さんの作品『ぼうふら横丁』には、動物園の夜についての描写があります。尾崎さんが上野桜木町に引越してきたのは、事件の翌年ですが、脱走事件はもちろん知っていたでしょう。「公園厭の如し」と「光陰矢の如し」をもじって、観光客で賑わう上野公園を嫌った尾崎さん、夜の公園には愛着があったようです。

夜の公園には人影がなく、大氣は落ちつき、草や木は自分たちの世界を取り戻して生々と息づいてゐる。動物園からは、ライオン、象、虎、オットセイその他もろもろの鳥獣の叫び聲、鳴き聲があたりの森を揺すぶつて聞こえる。少し大げさに云へば、東京という大都會の眞中に、原始を思はせるこんな世界が忽然と現出するのだ。

尾崎さんが描写した猛獣たちは、戦争が激化する昭和十八年(一九四三)の戦時猛獣処分により薬殺または餓死させられてしまいます。空襲により檻が破壊されて猛獣が脱走する危険を想定しての判断でしたが、そのきっかけが黒豹脱走事件だったと言われています。戦争で動物園の動物が犠牲になった話は、絵本『かわいそうなぞう』で有名です。この本では、空襲が激しくなったからやむを得ず、という描写ですが、その当時、まだ空襲は激化していませんでした。その頃の動物園を記憶している父は、「ライオン、象、虎、くまの猛獣がいなくなった動物園は、山羊やウサギばっかりで、牧場みたいだったよ」。

どうやら戦時猛獣処分は、〝戦争とは生易しいものではない。これらの動物を殺させたのは鬼畜米英である〟というプロパガンダに利用されたのです。子どもを含めた一般国民の危機意識を高め、戦意高揚させるため、罪なき動物の命を奪うことでアピールするという発想。動物の殉死慰霊祭が大々的に行われ、一般新聞だけでなく、子供向けの新聞でも報道されています。尾崎さんの『ぼうふら横丁』が発表されたのは戦後ですが、この動物園の一節を読んで、戦前の猛獣薬殺を思い出す人もいたことでしょう。尾崎さんの文章には、いつも言外のメッセージがあるのです。

さて、今日はここまで。人も動物も、平和に過ごせる世の中でありますように。今日、九月四日は父の誕生日。無事、八十五歳を迎えました。「尾崎のおじさんより二つも長く生きちゃったよ」。いえ、まだまだ長生きしてくださいね。なので今日は、いつもと違うお別れの言葉。

おとうさん、お誕生日おめでとう!


※トップの写真は、京成電車の旧博物館動物園駅内の壁に描かれたペンギン。藝大生が描いたと、聞いた記憶がある。


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atsuko
尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。